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2010年11月04日

南大東島へ④南大東の夜はふけて

11月3日(水)18:30
日が暮れるのは早く、民宿に到着したころは既に辺りは真っ暗になっていた。

庭で民宿のおばさんが体操していた。
「どこどこ行きました?」
「まるごと館と神社に行って、その後、西港で夕陽見てました」
「明日はどこに行きますか?」
「とりあえず日の丸展望台に行って、北のバリバリ岩までいこうかと」
「漁港と本場はすごいですよ。ぜひ見に行ってね」

他のお客さんはいそうにない。土木作業で島に出稼ぎに来てたおじさんが何人か泊まっていたらしいが、旅行客は我々2人だけのようだ。


さて、晩をどこで食べよう。狭い島だが飲むところはいっぱいある。
食事処「き作」、居酒屋「ちょうちん」、新しげな居酒屋「ちゃんぷるー亭」、金城のとなりにある「nomo」、新しくできたらしい「居酒屋なすび」等々いろいろある。島のメインストリートにはスナックもいっぱいあるし、パチスロやビリヤードもある。
結局、いちばん魚がうまそうだということで「き作」に行くことにした。

 


もずくは300円、刺身盛り合わせ(竹)は一皿2,000円。これだけで腹いっぱいになる。

 


「おすすめ何かある」って出てきたのが、ナワキリの塩焼き。(写真左)
ナワキリは深海魚らしく、歯がするどいのが特徴。(写真右)

一人3,000円弱で腹いっぱい飲んで食った。



20:30頃
腹ごなしに星を見ようと集落のはずれに向かって歩く。やはり離島といえば満天の星空である。
しかし、公園も道路の街灯がこうこうと灯っていて、あまり星が見えない。よく考えればこの道は空港と集落を結ぶメイン道路だった。あんまり必要性はないような気がするが街灯も多いはずだ。カエルの死骸も多いけど。

  公園にはやけに長いすべり台があった。


しばらく歩いて道路から少し外れた場所にベンチがあったので腰かける。
少し街灯の明かりは気になるものの、それでも満天の星空だ。
風の音しか聞こえない静寂な空気の中、空を見上げると星がまたたいてるだけ。あ、星が動いてる、と思ったら飛行機だった。こんなところの上空を飛ぶ便があるのかなぁ?

まぁそうはいいながらも満天の星空だけで何分も持つことはなく、程なく二人ともケータイをいじり出す。
この島はやはり電波が弱いのか、iモードもダイヤルアップ並みに遅い(だいいちソフトバンクは圏外だし)

この静寂を突き破るように前の道路を車がブォーーンと通る。
車はこんな夜中なのにやけに騒いでいる。全くうるさいなぁ。よく聞くと「茂みに何かいる」とかいって騒いでいるようだ。

我々のことか!

たしかに普段人のいるはずのない道路わきの茂みにあるベンチに、ただでさえ怪しげなおっさん2人が座り、しかも2人が2人ともケータイ見てたので、顔にケータイの光が反射して・・・

たしかに怪しい!



21:30頃
これ以上怪しまれてもいけないので民宿に戻る。
角の大盛商店で酒を買って民宿で飲みなおすことにした。

  買ったのはラム酒「コルコル」。


そう、この島には数年前からサトウキビを原料にした酒、ラム酒の工場ができたのだ。
種類は1,200円の赤と2,400円の緑があったのだが、ケチって赤いのを買った。


さてラム酒を飲もう。
封を開けるとリキュール系の甘い香りが鼻につくくらいきつい。いやな予感はしたが水で割り、飲む。。。


・・・「まずい!」


なんかアルコールの消毒液を飲んでいるようだ。これはいけてない。


しばらくしたら慣れるかと思うも、いっこうに慣れることはない。


これは、割るのが水じゃいけないんだろう。
「炭酸がいいかも」と近くの自販機でコーラとCCレモンを買ってくる。


コーラで割る。。。


・・・「びみょう・・・」


口直しにコーラだけにして飲む「・・・うまい」



その後、コーラだけCCレモンだけにして宴は続いた。


あぁコルコル、半分以上余ってしまったではないか!!!
やっぱりケチって安い赤を買ったのがいけなかったのか?
奮発して緑を買えばよかったのか?
それはそれで後悔しそうな気がするけど。


一応コルコルの名誉のために書くと、後日、工場見学の際にラム酒工場「グレイスラム」の人から、「これを水割りで飲むような人はいませんね」とあっさり言われたということを付け加えておこう。
カクテルのベースとかお菓子やケーキに入れたりして使うというのが主流らしい。


22:50頃
家に電話をかけ部屋に戻ってきたら、唯一映るテレビ局のNHK-BSは日本シリーズをやっていた。ニュースかと思ったら生中継、こんな時間に?と思ったら延長11回らしい。
そのまましばらく野球を見ていたのだが、気付くと長男は既に夢の中へと移行していた。

長い充実した一日が終わった。
  


Posted by tana at 22:32Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ⑤歩くスピードで島を一周



11月4日(木)朝

寝ていたら部屋まで響く大音量のメロディが流れた。

伊是名の630(ロクサンマル:朝の6時30分に起きて夕方の6時30分に家に帰る健康的な生活をしようという目的で、毎朝6時30分に集落中に大音量でメロディが流れる。)みたいだと、時計をみると朝6:00。まだ6時じゃないか、ロクサンマルとは違うのか。
このメロディで目はさめたのだが、長男はまだ寝ているようだ。結局30分ほど、布団の中でうだうだしていた。うん、朝日は明日にしよう。

そんなわけで伊是名島での630の言いつけを守り、6時半過ぎうだうだと起床。


民宿は素泊まりのため、朝食をどこかで食べるか買いにいかないといけない。
朝食が食べられるところを探しに集落内を朝の散歩。とりあえず役場の近くまで歩いてみよう。

   
すぐにどこからともなく犬がやってくる。大東犬かと思ったが足が長いので違うようだ。
体を撫でてやると気持ちいいのか、もっとやってくれとねだってくる。立ち去ってももっとやってくれとついてくる。


集落を歩いてみるとこの島は沖縄っぽくなく、どっちかというと北海道みたいに見える。一面に広がる畑や、外輪山が取り囲み海が見えないところとかもそうだが、また街並みもなんだかいつもの沖縄の離島とはなんか違う。程なく、屋根が赤瓦とかの瓦屋根じゃなくトタン屋根が多いというのが北海道っぽく見えるのだってことに気付いた。


農協を越え、役場の交差点を気象台方面に曲がってもさっきの大東犬(ではないが便宜上そう呼ぶ)がついてくる。すっかりなついてしまったのか、それとも怪しい者が歩いてるぞと後をつけてるのか。


結局朝食が食べられるようなところはなく、民宿の近くの大盛商店(南大東のコンビニと呼ばれている:6:30~23:00まで開店)で大東すし500円。

 
  


9:00自転車で島一周に出発。

島を一周しようと勇んだものの、よく考えると昼を食べる店は集落にしかない。昼に一旦集落に戻ってこないといけない。しかも「午後1時で店は閉まりますから気を付けてくださいね」と民宿のおばちゃんに言われてたので、何としても戻ってこないといけない。
というわけで午前中の行程を「島の南側の日の丸展望台から島の北側のバリバリ岩まで行こう」と下方修正し、出発!


外周道路に出る登り坂をあえぎあえぎ登り、9:30頃、日の丸展望台に到着。








展望台に上ると、一面のサトウキビ畑、それをぐるりと取り囲む外輪山、その向こうにようやく青い海。島の70%が一望できる。
高台のため風が強いが、日差しと自転車で登ってきた体にはそれが心地よい。


と、感慨にふかれながらも長男はここで、昨日那覇空港で見せてもらった地図を取り出し、「この下には旧日本軍の陣地壕があるようだ。」と言う。

 
 

そんなわけで下に降り、柵を乗り越え、写真を撮り、「ここの陣地壕はこんな構造になっていて・・・」と説明する。ひとつ目的が達成され長男は満足そうだ。
この陣地壕についての詳細は長男に聞いてくれ。きっと丁寧に答えてくれるはずだ。



次へ行こう。

外周道路を少し進むと「海軍棒」という看板。けっして海軍壕ではない。
10:00頃海軍棒に到着



ここには岩をくりぬいて作ったプールがある。プールの中にある大きな岩は、その昔台風で打ち上げられプールの中に入ってきたというものらしい。プールで遊ぶ子供たちの休憩場になってるようだが、今でも台風が来るたびに場所が変わっているという。



写真ではうっすらであるが、北大東が見えた。意外と近い。
そして結局ここでも波の写真を撮ったりとして30分もぼーっとまったり過ごしていた。



そんなわけで、次の南大東空港に着いたのは11:00前だった。
もうすぐ午前便の到着(11:20)と出発(11:45)の時間だ。屋上の送迎デッキに上がる。カギがかかってたのだが、内カギだったので勝手に開けて上がる。
飛行機の着陸から到着、そして乗客が降りて空港ビルに向かうところなど一部始終をカメラで撮影。怪しい監視員のように機体にカメラを向けていた。


  









  


出発便を見送るともう12:00前である。
そんなこんなで昼が近い。集落に戻らねば。唯一(と思う)の昼を食べることができる店がしまってしまう。
午前中のうちに、バリバリ岩まで行こうなんて思っていたのだが、3分の1も進んでない。
いや、なかなかいい進み具合ではないか。
  


Posted by tana at 22:26Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ⑥職務質問?

11月4日12:30頃
在所の集落に戻ってきた。
民宿金城に自転車を置き、大東そばを食べに行こうとすると、民宿のおばさんに声をかけられる。

「tanaさん、長男さん、職務質問とかされませんでしたか?」

「え?・・・いえ。。。」

「それなら良かったです。今警察の強化月間みたいで、いろいろ聞かれるかもしれません」

「・・・そうですか」

なんら後ろめたいことはないが、一瞬びっくりした。
いや、「後ろめたいことはない」と書いたが、いろいろ振り返ると怪しい行動は多かったなぁ。



・昨夜、星が見たいという理由だけで道路わきの廃寺の茂みでお化けのようにたむろ。この行動は近くの道路を通った車に目撃された。
・日の丸展望台では、展望そっちのけで柵を乗り越え陣地壕に入った(これは長男のみ)
・空港で、カギがかかっているにもかかわらず屋上に上がり、怪しい監視員のように機体や空港職員などに無遠慮にカメラを向け隠し撮り(別に隠れてはないが)した。

その他、朝の散歩では大東犬(みたいな犬)につきまとわれたし、そういえば大東神社では蚊の大群に襲われた。犬から見ても蚊から見ても怪しげな者にみられたに違いない。



これは、警察が動くのも仕方ないか・・・と思うようになった。



残された島の滞在時間、慎ましやかに過ごしていこうと思った。




昼は「大東そば」を食べる。



前に読んだwebでの旅行記では、大東そばの店は「伊佐商店」で、金城の真向かいに「富士食堂」という500円で食べ放題という食堂があったかに思ったのだが、今、目の前にあるのは大東そばと看板はあるが「富士食堂」。
webの旅行記自体10年近く前のものだったから、いろいろ変化したのだろう。

 
  

そば大700円、そばと大東ずしのセットが1,000円。
大東そばは、沖縄そばというよりもうどんに近い食感の麺であっさりとしたスープにあっていた。
また、ここでは大東すしも美味かった。

※大東すし・・・みりん醤油のタレにサワラやマグロを漬け込み、酢めしに乗せた南大東島の握り寿司。南大東島は、八丈島からの開拓者によって開かれた島であるため、八丈島や小笠原に見られる寿司が「大東寿司」のルーツといわれている。



昼を食べた後は、お待ちかねのシエスタ生活。



  

洗濯をし、シャワーを浴び、コーヒーを飲み、本を読むというまったり生活。
そういえば島一周はどうなったんだという人もいるかもしれないが、まぁ明日がある。
明日は気象台を見学しようと電話し、ガマ好きな長男のために地底湖探検というのも行ってみようかと思ったが6,000円と余りに高いのであっさり却下。
その後、本を読むと言いながら、本を読む姿勢でそのまま寝てしまっていた。


目が覚めたら庭で長男と民宿金城のおばさんがゆんたくしていた。

時計を見ると14:00を回っていた。
昼間は日差しが暑いくらいだったが、雲が出て風も吹いてTシャツ1枚では寒いくらい。
長男は「きのうのコルコル、コーヒーで割るとそれなりにいける」と言う。早く言えば昼間っから飲んでいたということだ。




民宿金城。
「古い建物だからね」と民宿のおばさんは言うが、なかなかに趣がある。
そして、このトタン屋根の建物と曇った空を見てると、北海道というかシベリアにいるような雰囲気である。


これから北の方、バリバリ岩まで行くことを告げると、
「北港だったら漁港も近いですね。」とさりげなくお勧めスポットの漁港を勧める。
そして「星野洞は16時に閉まりますよ。」と出発を急かす。


15:00
そんなわけで、島の北方向、星野洞とバリバリ岩に向け出発!
公的に洞窟に入れると長男の顔はほころんでいるように見えた。
おっと、いけない、顔をほころばせている場合ではない。我々は今この島で「怪しい者」として追われている身だったことを忘れてた。そして追われてる身ながらも長男は酒気帯び自転車運転ではないか。
ネズミ捕りにあわないよう、ゆっくりチャリを走らせよう。  


Posted by tana at 22:16Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ⑦怪しい自転車隊、北へ

11月4日15:00、星野洞へ向け出発

外周道路より一本内側の道を進む。
車がなんとかすれ違えるくらいのやや狭い道だが、車はめったに通らない。この道を我が物顔で怪しい自転車隊は北上。
車はめったに通らないが、ダンプなどの工事用車両や工事関係者らしき車は時々通る。
この島は他の離島と同じように公共工事が盛ん。「夕陽の広場」とかいう公園を建設中だった。こういったことが雇用を生み出し、出稼ぎ者も生み出し、飲み屋が栄える昭和の光景。この小さな島、小さな集落に意外に飲み屋が多いのもこういう背景があるのだろう。



「星野洞」



星野さんの土地の洞だから星野洞というらしい。入場料が800円。
受付で懐中電灯を貸してくれる。長男としては「私は常に持ち歩いているものがありますから」と言いたいところだろうが、敢えてそういうことは言わなかった。「怪しい者」として警察に追われてる身(前回の記事を参照)として簡単に素性は明かせないのだ。

 


そんなわけで一般的に懐中電灯を貸してくれるのは当たり前としてもこの施設、音声案内まで付いている。
客は日に数人くればいい方だというらしいが、そのような施設の割にはやけに立派に整備されているなぁと思ったところだが、音声案内の最初に、「この施設は竹下登時代の”ふるさと創生1億円”で整備しました」とアナウンス。

おぉ、離島名物「ふるさと創生1億円」だ。

やけに立派だなぁと思ったらやっぱりだ。
と同時に思った、伊是名島よりはまだ良い使い方してるな。





鍾乳洞もなかなかの見どころなのだが、「ふるさと創生1億円」に反応してしまい、これらの鍾乳洞を1億円で作ったのかなんてどうでもいいことばかり頭に浮かんでくるし、洞窟好きの長男は洞内の隅から隅まで行こうとするしで
大変だった。


洞窟の中は涼しいものというイメージに反して蒸し風呂状態で暑かった!


懐中電灯を返しに案内のお姉さん(自称)を訪ね、長男は「ボノジロってこの島でよく見るけど、どんな意味なんですか?」と問う。

聞くと、ボノジロとは島の言葉ではなく、ロシアの軍艦の名前という。
1820年、無人島のこの島はロシアの軍艦によって、存在と位置が確認された。その軍艦が「ボロジノ号」という。
その後、1900年に日本(八丈島出身者)からの開拓団によって日本の旗が立てられた。
この島の歴史は110年。
琉球文化を引き継いでいる沖縄とは根本的に違う島なのだ。



更に北に行く。
鉄塔が見えたら北港への分岐。ドコモとauの鉄塔がある。ここにソフトバンクが加わるのはいつの日か。
しばらく進むとバリバリ岩へ行く分岐。前は小さな看板しかなく人を寄せ付けない雰囲気だったらしいが、立派な看板も設置され、駐車場も整備されている。



「バリバリ岩」



南大東島の地層に亀裂が入って割れている。このバリバリ岩はもとは一枚だった大きな岩の割れ目で、幅1m程度の割れ目が何処までも続いている。

島の割れ目。



この島は珊瑚が隆起してできた島で、遠くパプアニューギニアから移動してきた島。
今でも島は年に数cm、沖縄本島の方へ移動してるらしく、そしていずれは海の底に沈んでしまうんだとか。

この割れ目は、島が動いていることの証。

割れ目を下って行った先は洞窟になっていた。ただそこも上を見ると裂けた岩の割れ目からかすかに光が・・・

何とも不可思議な雰囲気の漂っている場所。

月並みな言葉だがすごかった。ここは行ってみる価値あり。





その後、天然記念物という「大池のオヒルギ群落」を、「オヒルギって何だ?」という「 ? ? ? 」な気持ちのまま立ち寄り、(後に、オヒルギとはマングローブということを知る。)対岸にある大池展望台に行こうと思っていたが、気づくとあたりはだいぶ暗くなっていた。


大池展望台に行くまでに道に迷った。一本道なはずだが辿りつかない。




辺りはだいぶ暗くなり、右を見ても左を見ても同じようなサトウキビ畑。
今、自転車で走ってる道は北に向かっているのか、東に向かっているのかもわからない。いやどこへ向かっているのかではなく、「今どこなのか」ということもわからない。

「ここどこだろう」と立ち止まって地図を見てても、急に犬にほえられるもんだから、すぐに逃げるように去る。やっぱり怪しいものに見えたのだろう。

そうこうしているうちに更に日が暮れ暗くなっていく。


こういうときの解決法はただ一つ、


「元来た道を戻ろう」


これまで通ってきた道のうっすらとした記憶をたどりに家路へ戻る。


民宿に戻ったころは真っ暗だった。  


Posted by tana at 22:12Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ⑧南大東の夜はふけて~2日目~

宿に着いたのは18:00過ぎ。


唯一映るテレビ局のNHK-BSは今日も日本シリーズをやっていた。
千葉ロッテvs中日、2勝2敗で迎えた第5戦。
初回1点先制されたマリーンズだが、その裏打線が繋がり4-1と逆転。こういう光景を見て、2005年の日本シリーズ、虎を完膚なきまでにやっつけたことを思い出した。思えば近年の日本シリーズの中でいちばん興奮したシリーズだったなぁ。


夜は「ちょうちん」という居酒屋へ。いろいろ晩を食べる(飲む)ところはいっぱいあるが、なんとなく昔からありそうな居酒屋だったから、そこに決めた。


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19:00頃
居酒屋に入る。既に地元の人と思われる人(もしかしたら出稼ぎの土木作業員かも)がカウンターに3人、テーブルに2人の先客がいる。

そして、ここでも日本シリーズをやっていた。

今日も刺身を頼み、日本シリーズを見ながら飲む。

今年は第4戦、第6戦、7戦と死闘で見ごたえのある試合だったが、この試合はマリーンズのワンサイド。


カウンターのお客さんは、厨房にいる居酒屋のご主人と話しているのだがウチナーグチで何を言ってるのかわからない。
そのうち野球の話になり、だんだん話の内容がわかってきた。
「だから今日で日本一が決まるんじゃないよ。一日おいて、ナゴヤに戻ってそこでロッテが勝ったら日本一、中日が勝ったら3対3で、その次勝ったら日本一さ」とかいった内容の話をしている。
そして何回も同じ話をしている。


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野球もワンサイドになり、カウンターにいた3人のお客さんも帰っていき、残ったのは我々2人と後からやってきて隣のテーブルに座った地元のおじさん1人になった。


そんなわけで、しばらくしてご主人とおかみさんが我々のテーブルの近くにやって来ていっしょに話をする。

(※この辺から酔って記憶があいまいなので、細かい内容は不明)


昨日行った「き作」はご主人のお兄さんとのことらしい。
また、弟さんは那覇のとまりんの近くで店を開いているということで、その名も「き作」という。三兄弟そろって料理人なのだ。
おかみさんは、我々が明日那覇に帰ると聞いて「ぜひ行ってみてくださいね」と勧める。我々としては2日間魚が続いたので明日は肉を食べようかと思っていたのだが、「結構人気だからカウンターしか空いてないかもね、電話してみようか」と、その店を予約させられそうな勢いだった。


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長男がご主人に「この島はいつが一番、おすすめですか」と聞いたときの返事。


「いつが良いというのはない。今、秋だから、次は冬に来てほしい。その次は春に来てほしい。」


・・・そうか、この人はこの島に住んでいるのだ。


春が良い
夏が良い
秋が良い
冬が良い
明け方が良い
昼下がりが良い
夕暮れが良い
夜が良い

もちろん逆もある

きっと日常とはそういうものだ

闇も、光も永遠に続くものではなく

その時その時の表情があるのだ


昨日今日、島を一回りしたとしても、島の全部を見たわけではない。
せいぜい島の365分の2を見ただけなのだ。


そんな、何の変哲もない日常にふっとやってきて、そして風のように去っていく。


そう考えるとふっと何か面白くなってきた。



そしてご主人は、時間を置いてこう言った。

「でも9月の祭りの時が一番いいかなぁ」


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帰り際、「この島に来てくれてありがとう」と手を握ってくれた。


私の中でこの2日間はけっして365分の2、なんてものでは、ない。
  


Posted by tana at 22:07Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ⑨いよいよ3日目

11月5日(金)南大東3日目

7:00過ぎ起床。
やや昨日の酒が残っている。結局、今日も朝日は見にいけなかった。。。



8:00
朝を軽く食べ、気象台へ行く。

台風の時に良く聞く南大東島。
ここの気象台は台風観測の最前線であるとともに、高層気象観測を行っている。
高層気象観測とは高度約30km付近(成層圏)までの気圧、気温、風光、風速を観測するもの。ここから得られたデータにより高層天気図を作成し天気予報に利用したりしている。こういった観測所は日本国内では16か所、全世界には約900か所あるという。

観測方法は気球に水素ガスを充填させ、空へ飛ばす。気球に付けたセンサーで観測し情報を送ってくるという仕組み。1日に2回、8:30と20:30に観測しているという。気球を飛ばすのは自動化されているので、人手は気球の補充くらいしかいらないという。

 

       水素ガスが入る前の気球                センサー

と、いった説明を気象台の人に受け、さぁ観測時間(気球が飛び出す時間)の8:30になった。




8:30
気球がポンと飛び出し、一気に飛んでいく。あっという間に空の彼方へ飛んでいった。




気象台の近くにあった、ふるさと文化センター(入館料200円)に入る。
この島はその昔、島全体が製糖会社の社有地だったということは知っていたが、以下のような土地問題があったことを初めて知った。



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南大東の土地問題~土地所有者認定記念之碑より抜粋~

 本村の農地は、明治33年以来、国有地であった原生林を玉置商会が借り受け、同商会と開拓農民との間に貸付期間満了後は農民に所有権が払い下げられるとの口約で、前人未到の地に、農民の自力自費を投じて指南にして崇高な開拓がすすめられ、大将の初期には全農地が開拓された。
 大正5年、経営不振に陥った玉置商会は、事業権を東洋製糖株式会社に売り渡し、諸々の経緯を経て東洋製糖会社は土地の所有権も取得した。しかし昭和3年、同社は大日本製糖株式会社に合併されたため、南大東島は大日本製糖株式会社の所有地となった。結果、島は位置会社が経営支配するという日本国中に前例のない社会制度が昭和21年まで続いた。
 昭和26年、農地の所有権は開拓農民およびその後継者にあるという先の事実に基づき、村長以下全村民が団結して、土地所有権認定問題を関係当局に提起。会社とも折衝を重ねたが、島の支配者も変転されているだけに困難を極めた。昭和36年6月、時の琉球列島高等弁務官キャラウェイ氏来島の際、土地問題を本村の基本的重要問題として直訴した。キャラウェイ氏は要請を受け入れ、島の土地問題は米国民政府土地裁判所において審議することとなり所有権の帰属について係争が続けられた。
 昭和39年7月30日、高等弁務官の採決に当事者が合意し、1,679ヘクタールの農地は無償で農民に所有権が認められた。一方残余の宅地等は、大日本製糖会社から琉球政府に条件付き寄贈され、後に琉球政府から村が条件付贈与を受け、村は各使用者に売り渡した。
 村民の悲願であった土地所有権問題は、ここに開拓創始以来から、64年6ヶ月8日目にして解決した。
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文化センターの脇にはキャラウェイの銅像もある。
キャラウェイは、日本への沖縄返還反対論者として知られ、当時の沖縄住民の多くが彼に反発していたのだが、大東島民にとっては恩人。人間や事象の評価というのは、ひとつの方向からだけでは解らないものである。



その後、役場に寄り南大東村史を買いに行き(長男が)、ふたたび怪しい自転車隊金城1号金城2号は島の真ん中へ移動。



3日目にして思ったのだが、この島を自転車で回るのはけっこう大変だ。
そうはいいながらも午前中、島まるごと館(入館料200円、今回はちゃんと小銭を持っていった)と、ラム酒工場「グレイスラム」、そして、長男の強い要望により秋葉神社の近くにある忠魂碑へと精力的に金城1号金城2号は走る。

島まるごと館では、館の人に「自転車で島を回ってるんですか」とびっくりされる。やっぱり島の人から見るとそうなのだろうなぁ。


旧空港にあるラム酒工場「グレイスラム」で見学をしたのだが、ラム酒のことはそっちのけで旧空港の施設がいろいろ残っているのにびっくりする。

 

    建物は旧空港をそのまま利用             中に入ってもそのまま

    

    奥の工場に入ってもそのまま               昔は18人乗りだった



12:30頃
昨日同様大東そばを昼に食べ、民宿に戻ってきた。
あとはシャワーを浴び、飛行機出発の時間までゆっくりして土産などを買いに集落をうろうろしようと思っていた。  


Posted by tana at 22:05Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ⑩漁港へ、そして、また来るよ

11月5日(金)12:30頃
飛行機出発の時間までゆっくりして土産などを買いに集落をうろうろしようと思っていた。

庭でゆっくりしてると民宿のおばさんが話しかけてきた。

「昨日はバリバリ岩に行って、漁港は行きましたか?」
「いえ、暗くなってきたんでそのまま帰りました」
「あら、漁港には行かなかったの?」

それはまるで、こんなさい果ての南大東までやってきてるというのに、お前達はなぜ漁港に行かないのだ?とでもいうような口ぶりだった。漁港がそんなにすごいのか?


「漁港はすごいですよ。城壁みたいですよ。まだ時間はあるので行ってみてくださいね」


しきりに漁港を勧める。そういえば初日からそうだった。
だが、さすがに3日間の自転車で膝もかなりくたびれてきていた。
今日の午前中も精力的に動いた。最後の方は長男の本能のまま忠魂碑まで探しあてた。自転車も終わり「やれやれ、あとはゆっくりしよう」と思ってたところに追い打ちをかける一言だった。そんなわけで、

「あぁ・・・、そうですね」

というに留まった。
それでも、おばさんは引き続き漁港の話を続ける。そして、だんだんと長男も例の国土地理院の地図(戦跡がマーキングしているやつ)を持ち出し漁港の建設のいきさつについていろいろと話し出す。
おや?だんだん二人で漁港の話で盛り上がり始めてるぞ。
まぁ待て待て、いいじゃないか、また近いうちにフェリーで北大東に渡り、その後南大東にも来ると決意したのだから、その時に行けばいいじゃないか、次の楽しみに残しておくのも乙なものだろう、もうここをてこでも動かんぞ。・・・と思っていたものの、密室協議の結果、以下の結論に至った。

「わかった、そこまで言うのなら、もうひとふんばり漁港までがんばろう」


ふたたび外周道路に登る坂道をあえぎあえぎ上り、北に向かって30分、すれ違う人も自転車も車もいない。そして最後の目的地、漁港に着いた。着いた途端目を疑った。



なんじゃこりゃ。

岩をくり抜いて港を作っている。
今までの島ののんべんだらりとした景色とは明らかに違う。
先入観なしに行ったものだからまったく想像を超えるものだったことにびっくり。
漁船が直接接岸できるようするため岸壁を削って作った大きな漁港なのだが、おばさんの言うとおりこれは城壁だ。そして、なんとなくギリシャにあるような古い競技場のようにも見える、水がなければ。



看板があったので見る。
平成元年から工事に着手し来年度終わる予定。事業費は23年間で299億円である。
おばさんは言っていた。
「でも、旅客船は入れないんですよ。漁船は農林水産省で、旅客船は国土交通省の管轄になるから、補助がおりなくなるらしいです」
粟国でもそうだった。旅客港を整備しているのに、人の来そうにないところに立派な漁港を作ってた。そこへのアクセス道路が離島にふさわしくない歩道付きの二車線の道路だったし。漁船と旅客船の航路がごっちゃになると危険でもあるが・・・。
旅人としては、旅客船で吊りあげられる体験を残してくれたので、それはそれでよかったと思うべきなのか。


この漁港の工事で23年。この間、旅客用の西港も整備されたことだろう。そして新しい空港も10年前、2000年に完成したというし、空港と集落をつなぐ新しい歩道付きの立派なアクセス道路も建設された。(その歩道は人が通った形跡はないが。)今も「夕陽の広場」という公園を建設中である。

20年以上、島は公共事業で潤っている。

民宿にも旅行客以上に沖縄本島などから出稼ぎできている土木作業員が泊まっている。それで泊まって夜は飲んで、この島は潤っている。観光客が来なくてもやってこれたことだろう、これまでは。




海の向こうに島影が見える。北大東島だ。
はっきりと見える。なにしろ北大東まで8kmしかない。
8kmしかないのだが、この間の海の深さは1,500mまで深くなる。

富士山のような山が海の底からにょきっと生えている。そんな島が2つ。沖大東島を合わせると3つある。


この島は本当に絶海の孤島なんだなぁ。








15:40頃、民宿金城発、泊まってた土木作業員2人といっしょに民宿の車で空港へ行く。
15:50空港着。
2泊3日、お世話になった民宿のおばさんに別れを告げ、空港に入ると、そこは人だかり。どうやら午前の便が出発できなかったらしい。そんなわけで午後の便は満席とのこと。

今日は天気は良かったし、しいて言えば風が強かったくらいだが、一体どんな理由で出発できなかったんだ?(あとで確認すると機体の故障が原因だったらしい。)





機体に乗りこむ。
16:25定刻通り、琉球エアコミューター機は南大東を離陸。
しばらくは島の上を飛ぶ。薄い緑のサトウキビ畑、大池が見える。上から見るとほんとにこの島は池が多いなぁ。
「電子機器の使用はご遠慮ください」とアナウンスで言ってるのに長男は写真を撮っている。そんな長男の姿を見て安心したのか後ろに座ってた人もデジカメを取り出し写真をパシャパシャ撮りだした。この飛行機が故障して、南大東に戻ったり、あるいは北大東に不時着してしまったとしたら、責任の所在は長男にあるといえよう。
しかしプロペラ機は、そんな責任の所在のことなどおかまいなしに突き進み、だんだんと島影は小さくなっていく。


飛行時間は1時間。那覇へむけて突き進んでいる。


帰国


の二文字がちらついてきた。そうか、戻るのか。
那覇といえばもう大都会。帰ってきてしまったなぁ。
と、思うとなんだか寂しくなった。

ムスメは1歳10ヶ月になった、仕事も忙しいけど充実している。
今の日常はそれなりに大変だけど、これまでの人生の中でいちばんかけがえない日々を送っていると思う。
そんな日常の中、気持ちが旅から遠ざかっていた時もあったけど、でも行ってみるとやっぱり旅は楽しい。旅が好きなんだって思う。
帰る場所は決まっているけど、時々ふらふらうろうろしよう。


17:40
那覇に着いた。
機内のアナウンスの最後に一言付け加えられた。

「皆様良い週末を」

そうだ、今日は金曜の夜、世間はこれから週末だ。
そうだ週末だ、そんなわけで、これから先は長男と二人、那覇の夜の街に消えていったのでありました。


                =南大東島へ 終わり=  


Posted by tana at 21:58Comments(0)10.11南大東島へ

2010年07月04日

7月4日

昨日あれだけ降っていた雨も上がり、今日は晴れ間が見える梅雨の中休み。

1歳半になる娘を連れ、近くの公園へ。


娘はさっそくブランコの下にたまった水たまりにじゃぼん・・・

あぁ・・・、帰ったらシャワーだな・・・。


でも、日蔭のベンチに座ると汗ばんだ体に当たる風が気持ちいい。

夏の始まりというような一日。

  


Posted by tana at 11:46Comments(0)無題

2010年03月27日

「ひたすら歩いた~沖縄みちばた紀行~」



ひたすら歩いた~沖縄みちばた紀行~カベルナリア吉田著  彩流社


国際通りでは賃料の値上げで店舗が次々に変わり、チェーン展開する土産屋ばかりが生き残った経緯があるという。ここ3年の間に、知り合いのゲストハウスが次々と「アンタ、儲かってるらしいね。私が宿をやるから、アンタは来月限りで出て行ってちょうだい」という話を突然され宿をたたんだ・・・・国際通りは県外者に荒らされ風情を失った印象が強いが、果てしてそれだけなのか?(本書内より)


変わっていく沖縄で、それでも自分の足で歩いて、変わらない沖縄を見つける。
その変わらない姿を発見する度に、旅に出てよかったと思い、また旅に出てしまう。


*************************************


開発の波にさらされている沖縄。
久しぶりに国際通りを歩いて、喜納昌吉の店のビルの1階の奥まったところにあった本屋がなくなっていたことを知った。
名護からちゅら海まで走る道路は2車線化の工事の真っ最中であり、また糸満を経由してひめゆりまでの道も2車線化になるらしい。基地をアメリカに返すことなどできないから、その代わりと金をつぎ込み、日本からの観光客のための道路を建設する。その度に海は埋め立てられ海岸線は護岸になっていく。
最終日に長男に連れて行ってもらったのだが、沖縄戦の激戦地であるハーフムーンの丘、切り崩されて道路になっていく工事の真っ最中。未だ遺骨が眠ってるのに、である。
去年行った石垣ではコンビニシーサーが取り壊されホテルになるようだ。
などなど・・・

この渦の中には誰がいるのだろう。
旅に出てよかったと思えるような景色が金になっていく。


変わっていくのは仕方の無いこと。
だけど、ここ何年かはそのスピードが加速している。
仕方ないなと思えるものもあれば、これはいかがかなと思えるものもある。
それでも変わっていくもの変わらないもの新たな居心地いいものを探して旅に出る。


今晩食べる店、今日泊まる宿、土産を買う店、コーヒーを飲むところ・・・
選択を間違えないようにしないと、いけない、かな。  


Posted by tana at 22:59Comments(0)映画,本,CD他

2009年12月14日

10ヶ月にして最南端へ①出発前のいろいろ

=2009年11月、娘、10ヶ月にして最南端(石垣・波照間)へ=


2009年1月21日、我が家の娘はこの世に生を授かった。今思い出しても涙涙の出産劇であった。
そして同年11月19日から4日間(つまりこの間に10ヶ月を迎える)、親の事情により、我が娘は有人島では日本最南端の波照間島へいくことになった。
わずか10ヶ月にしてである。全くふざけているではないか。
多分父親が父親だから遺伝子の中に旅人の遺伝子が含まれていると思うが、更に追い討ちをかけるように、この頃一度離島の民宿に連れ、本人の記憶のないうちに脳の奥底に記憶を組み込ませよう、という魂胆である。20年くらいたった後「世界一周してくる」とか言い出したら、大成功である。



まぁそんなことはどうでもいい。
今回の旅のメンバーは、我々家族3人と、マニアオブマニアの「長男」、そしてこんな旅に2度もついてくるなんてだんだんと毒されつつあるなぁと思われる「ミーナ☆」さん。計5人である。


そして予定は以下のとおり。


11/19(木)
広島→那覇→石垣へ。夜は石垣牛の焼肉となるだろう。

11/20(金)
石垣から朝の1便で波照間へ
泊まりは新婚旅行以来2年半ぶりのけだもと荘泊

11/21(土)
波照間で一日まったり過ごし、夕方の3便で石垣へ。
ここで石垣在住のモーリーさんが合流。夜は石垣牛の焼肉となるだろう。

11/22(日)
レンタカーで島を一回り。時間があればもう一回り。
夕方の便で惜しまれつつ帰国。




さて、出発前の土日、長男がはるばる滋賀県から広島にやってきて旅の打ち合わせを行った。土曜日はうちなー、日曜日はやぶそばへ。まぁ決まったことは、①石垣では焼肉を食べましょうということと、②那覇空港で適当に落ち合いましょうということくらい、特段はるばる滋賀県から来る必要も無かったが、土曜日はうちなー、日曜日はやぶそばへ、結局家族揃って出かけた。


まったく親の道楽に付き合わされる娘も大変だ。


土曜日の沖縄料理店「うちなー」では、遅い昼寝の途中を起こされ、店についてもなお眠そうな娘であったが、ライブが始まると、音楽に合わせて手拍子したり、腕を上下させてリズムとってたりしていた。

これは、なんか、、楽しんでる?

まぁ腹の中にいる時から「うちなー」で聞いていた三線のリズムだからな。


とはいえお母さんの腕に抱かれるその姿はいつもとまた違い、おとなしく、そんなに騒いだりしていない。眠いのもあるだろうけど、「いい子」にしていた。まだ外の世界は住み慣れた家の中とは違い「勝手が違う」と思っているのだろう。


さて、そんな状況で「4日間、住み慣れた家を出る」というのはどんな風になるだろう。移動も多く、寝るのも食べるのもいつもと違う場所、居心地悪いこともあるだろう。ほんとに今旅に出て大丈夫だろうかと思う。


でも、エレベーターなんかで見ず知らずの人に「かわいいね~」など言われると全力で愛想振りまいたり、外面のいいところもあるから、、、


結論:まぁ、なんとかなるだろう。アントニオ猪木ではないが、「危ぶむなかれ、行けばわかるさ」である。  


2009年12月14日

10ヶ月にして最南端へ②初めての飛行機

出発する前に、いま一度、生後10ヶ月の特徴を簡単に述べたいと思う。


・ハイハイが前に進むようになり行動範囲が格段に広がる。つかまり立ちも近いだろう。
・いろんなものに触りたがる。近くに紙があると十中八九ぐちゃぐちゃになる。デジカメで撮ろうとするとデジカメに触ろうとする。パソコンを打ってるとパソコンのキーボードに触ろうとする。こないだなんかちょっと目を離したらyahooで「¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥」について検索していた。
・「○#жШ☆△!!」と意味不明な言葉で会話するようになる。娘なりに「飯はまだか!」とか言ってるんだろう。
・夜泣きをするようになる。隣に乳(=お母さん)があれば泣きやむが、乳がないと泣く。そして乳(=お母さん)が戻ってこないと泣きやまない。
・そして、後追いが始まる。ここでもお母さんが近くにいないと泣く。
・離乳食、硬いご飯でも大丈夫になる。そのときの機嫌で食べないこともある。食べ物を手でつまんでは口にもっていくことはせず下に落とす。食器が近くにあると食器ごと落として床がご飯まみれになる。じっと座って食べるようなことはまずない。


以上簡単に述べたつもりであったが・・・



結論:こりゃ大変そうだ。



こんな月齢で旅立たせるのはいかがなものかと思うこともあったが、娘が生まれて「好きなことを何も出来なかった」とか「好きなこと我慢して育てたんだぞとか」娘が大きくなったときに恨み節のように言うのは嫌だし、なにしろお父さんお母さんが楽しんでればきっとそれは娘にも伝わるだろう。



とはいえ大変そうなことに変わりは無いが・・・




11月19日(木)


朝7:40頃広島空港着

飛行機には私も妻も数え切れないくらい乗っているが、娘にとって、生まれて初めての経験である。



8:20飛行機は那覇空港へ向けいよいよ離陸。

離陸するとき娘はどうだったのか。その答えは・・・



「乳を飲んでいた」



・・・まぁ離陸して耳がキーンとなったらいけないから乳を飲ませるといいと聞いていたからだけど。
そんなわけで特段のトラブルもなく娘初めての飛行機は無事に那覇に向け飛び立ったわけである。

その後は朝食。私と妻は途中の小谷SAでパンを買ったものの、娘は寝起きだったので車で離乳食は食べられず、飛行機の中で食べるようになった。離乳食を食べさすときは空間が飛行機の中というだけでいつもと変わらない。いつもと変わらないというのは「食べ物を手でつまんでは口にもっていくことはせず下に落とす。食器が近くにあると食器ごと落として床がご飯まみれになる。じっと座って食べるようなことはまずない。」ということであり、いつも同様じっとしていない。

一人は手をベルト代わりに抱っこし動かないようにして、一人がスプーンで食べさす。二人がかりでなんとか離乳食は終わる。その後は乳である。お父ちゃんお母ちゃんは寝る暇などないが、娘は乳飲ませコテンと寝てしまった。



10:30頃那覇空港着


ここで長男と合流予定だが、長男は既に1時間半のトランジットを利用して赤嶺のアルテックへ買い付けに行っていた。相変わらずだ。
我が家はというと、娘はずっと寝てるので、空港のベビーカーを借りて空港内をウロウロするにとどまった。



12:00那覇空港発、石垣へ

再び離陸するときは乳を飲ます。
今回も無事、離陸。





1時間後、飛行機は高度を下げ瑠璃色の海が眼下に近づいてきた。窓の外を見せ「このきれいな海が名前の由来になったんだよ」というも、娘は我関せず。すぐに目の前のビニールに夢中になるのであった。



13:00頃石垣空港着

タクシーで市内へ。
泊まる宿は、ホテルククル。旧大原ホテルである。経営者が変わって名前もかわったらしい。
タクシーの運転手も「どんどんホテルの名前が変わっていってわからん」という。

そして730交差点に近づき気づいた。


「コンビニシーサーがなくなっている!」


建物はまだあるものの中はもぬけのから。更にとなりにあった建物も取り壊されて更地になっている。タクシーの運転手は言う「ここはホテルが建つみたいだね」
未だ続く離島ブームにここ石垣島はその拠点として内地からの移住者も多い。新婚旅行のときに泊まったチサンリゾートは健在だが、桟橋も新しくなったし、この辺の景色はどんどん変わっていく。コンビニシーサーで飲み物を買って、離島桟橋でぼーっとするなんてことはもう昔の話になってしまった。見慣れた景色がひとつ、またひとつ金になっていくんだなぁ。

2004年当時

2006年当時、どんどん派手になっていく



宿にチェックイン後、ちょっとゆっくりして14:30頃、あやぱにモールにある真仁屋そばで昼を食べる。

我々が昼を食べるということはつまり娘も離乳食の時間である。
いつもの離乳食で(いつものというのは上述のとおり)、お母ちゃんのそばはすっかりのびてしまった。



その後歩いてみんさー工芸館へ。
その道のりは30分くらい。ベビーカーに揺られ娘はむちゃくちゃ元気。周りに見境なく手を振り愛想を振りまく。キャッキャッ言うその姿はまるで選挙カーのよう。「tana娘、tana娘でごぎいます」とか言っているようだ。



16:00頃、みんさー工芸館で目的のものを購入した我々は石垣空港へ。
ミーナさんが16:30頃空港に到着するのだ。
気候は暖かいというかTシャツ1枚で十分というくらい。曇って風が吹くと気持ちいいという感じである。そんな穏やかな気候なので空港まで歩くことにした。徒歩にして30分くらい、時間的にもいい感じだ。ちなみに娘はみんさー工芸館で乳を飲みコテンと寝た。さっきと違ってベビーカーでガタゴト揺らしても起きやしない。






時間的にミーナさんが乗っていると思われる飛行機が空を飛んでいる。

「ミーナ☆さーん!!」

と飛行機に向かって叫ぶも、気づいてくれただろうか。

まぁこっちはこっちで、私はいつもの赤いTシャツに、妻はベビーカーを押し、長男はいつものガマスタイルとそれぞれに目立つ格好をしているので、見る人が見たら気づいたかもしれない。



無事ミーナさんを石垣へ迎え入れ、再びタクシーで市内へ戻り、夜はいつもの焼肉金城へ。

有名な焼肉店は「やまもと」という店もあるのだが、聞いた話によると大変な虎ファンのようで店内には虎グッズが並べられていると聞いた。いつか行こうとは思っていたがその話を聞いて興味が薄れてしまった。たしかに鯉ファンベイファンがタッグを組んで店に入ったとしても「いつも勝たしてもらってありがとうでぞいます。しかも鯉さんには金本とかシーツとか・・・」とか言われて歓迎されるかもしれない。そうなったら大変不服である。そんなわけでここはやめた。(まぁ予約でいっぱいだったわけだが・・・)


 

石垣牛を堪能し、その後はホテルの部屋でジミーのアップルパイ大会である。アメリカンな豪快な味だったが1ホールはでかい。牛肉をたらふく食ってさらにデザートまで食べた胃にはいくら別腹とはいえ大きすぎる。そんなわけで4人では食べきれず半分残った。





0:00
部屋がベッドだったため、落ちないように写真のようにガードする。


・・・一日が終わった。
どこでもハイハイ、どこでもじっとしていない、怒涛の一日だった。焼肉金城で掘りごたつから落ちて泣いたということもあったが、それ以外は想定内か? 子連れ旅、なにかとたいへんだ。
それでも会う人会う人に「かわいいね~」「何ヶ月?」とか言われるのは、やっぱりうれしい。
今日は移動が多かったけど、明日、波照間に着けば多少はゆっくりできるだろうと期待して就寝。  


2009年12月14日

10ヶ月にして最南端へ③ニシ浜とシエスタと最南端

11月20日(金)





6:00起床、部屋の窓から朝焼けがきれい。



さて、明るくなると昨日半分残してそのままにしていたアップルパイに早速蟻がたかっていることに気づいた。そのままゴミ箱へ。



朝食を食べさせ、フェリーターミナルへ。




そして8:20発の波照間海運ニューはてるまにて波照間島へ。
竹富、黒島、小浜、西表、新城と島を抜け、外海に出る後半30分、船は大いに揺れる。娘は食後の乳を飲んで爆睡。
グオーーンと立て揺れがする中、それでも目覚めず爆睡。
我が娘ながら大物だ。



そんなわけでたしかに揺れたものの、思っていたほどは揺れずに9:30過ぎに波照間島に到着!



港でけだもと荘のお兄さんが迎えに来てくれ、2年半ぶりに「けだもと荘」へ。

2年半前、お父ちゃんとお母ちゃんは新婚旅行でここ波照間のけだもと荘へ泊まった。新婚旅行といいながら結婚式がこの後だったため、けだもとのお母さんからは結婚式のいろんな話も聞いたし、サンゴでウエルカムボードを作りたいというと、お兄さんが半日車を出してもらい島中の浜を案内してもらった。思い入れのある島と宿である。



車は小学校の横を通り、集落を抜け、けだもと荘に着く。



着いて家の中にあがる。
ヘルパーさんに、けだもとのお母さんも姿を現す。前回同様皆さん賑やか、けだもとのお母さんの太陽のような明るさ、ヘルパーさんもそれを受け継いだような感じ。そして娘を見て更に賑やかになる。孫の星(あかり)ちゃんもやってきて、受付というかしばしのゆんたく。そんな雰囲気が嬉しい。
この島にも観光客が増え、中には常識の無い客もいることだろう、辛いこともあるだろうけどそのなかでもこの明るさが素敵だ。それがここが人気になる理由だろう。



午前中はニシ浜へ。
背中に抱っこひもで娘を背負ったまま自転車でニシ浜へ。





予報では曇りだったが、ニシ浜に着いた途端、晴れ間が出て、そして晴れた。
晴れたのでニシ浜はより鮮やかに。本当に太陽の力は偉大だと感じる。





空の青、雲の白、群青色、青色、空色、緑色、そして白い砂浜

いろんなものがかわっていっても、ここだけは変わってほしくない、そんな色が目の前にある。








昼を食べる。
花HANA食堂も青空食堂も休み。食堂とカフェと雑貨屋とを兼ねたような店(つまり店の名前忘れた)で野菜そば。
地べたに座りゆったりと娘の離乳食を食べさせる。いつものように二人して食べさす。(一人は手でベルト、一人が食べさせる)
食事が出てくたのは離乳食が終わったあとくらいとほんとにのんびりしたところだったけど、そのおかげで娘やほかにいた子と遊んだり、雑誌を読んだり1時間くらいゆっくりまったりできた。
急ぐ必要なんてなにもない。




民宿に戻る。
夕方まで「洗濯、寝る、洗濯を干す、本を読む、寝る」のシエスタ生活。
私は旅の中でいちばん好きな時間は、昼下がりに日影でまったり本を読んでいる時間と、この洗濯をする時間だ。旅の途中、何かがリセットされるような感覚を感じられる時間。




夕方最南端の碑へ。

けだもと荘のお兄さんに赤ちゃん用の自転車イスを付けてもらい、いざ最南端へ!
自転車で20分ほど走り、いよいよ、、、






娘、10ヶ月にして、最南端に立・・・

立・・・???

立ってないぞ?

10ヶ月にして、最南端に座る。であった。








あくまでここは日本の最南端であり、ここから南にも西にも世界は広がっている。(もちろん北にも東にも)
大きくなって世界を見たいと思ったとき、ぜひ迷うことなく行ってほしい。私もまだこの世界の100分の1も、1000分の1さえも見ていないけど、いつか世界を歩いて、この世界の現実を肌で感じ、そしてその場所でも我々と同じようにささやかな日常が繰り広げられることを知ることが出来たら、それだけで旅に出てよかったと思えるようになるから。
  


2009年12月14日

10ヶ月にして最南端へ④けだもと荘の夜と朝





けだもと荘の食堂に2年半前の写真が飾られていた。いっぱいの写真の中から我々の写真を見つけたとき、やっぱり嬉しいものである。


日中はいい天気だったのだが、夕方から雲が多くなり、夕食時は雨もぱらついていた。
夕食時、テレビの天気予報では「明日の八重山地方は雨の予報、そして波の高さは4m。」

「波が5mになったら船はでないようですよ」

ととなりにいた男性2人組が話していた。波浪注意報も出て波も高い。明日の船が出るのか心配になる。心配にはなるのだが心配してもどうしようもない。



だいたい食べ終わったところで娘の離乳食にとりかかる。
また今回も悪戦苦闘しながら食べさせるも、ふと横を見たら長男がとなりにいた男性2人組とガマの話で盛り上がっているではないか!

いったいどこからそんな話になったんだ!?

と、同時にいつだろうがどこだろうが長男の話す話のテーマにはブレがないことにほんとに感心する。
まぁ隣の男性2人組も、明日は西表に渡って「忘勿石」の話を聞きに行くようで、いろいろ平和活動にも興味を持っている感じだっただからきっと長男と話もあうのだろう。
全く、類は友を呼ぶというか、マニアはマニアを呼ぶというか・・・



離乳食も終わり、妻は乳をやりに部屋に。
他の人はそのまま泡波を持ってゆんたく場に。ゆんたく場にはそれまでのほかの客が飲んでいたのみかけの泡盛もあり、それらを適当に飲みながらいっしょに泊まっている20代と思われる若者たちともゆんたく。
とりとめのない話をしながら、記憶に残ってるのはある人が話していた島人が言ってたという話。

「波照間は観光の島じゃない。農耕の島だ。」

この宿も門限は23時まで。
それは波照間島自体が23時以降は観光客はうろついてはいけないという決まりがあるようだ。
我々は島人の生活のなかをちょっとの間お邪魔しているにすぎない。
飛行機の定期便はなくなり、船も波が高くなると欠航が多い。ここに来れたこと自体がすばらしいことだ。


話が途切れると、なんともいえない静寂につつまれる。

車の音も、テレビの音も、パソコンの音も何もしない静寂。

そんな中、キュッキュッキュッという声がする。ヤールーだ。





22時頃、誰かが「雲が切れ星が見えてるよ」って言うので、宿のみんなで星を見に行く。
集落を抜け道路に寝そべり星を見る。目が慣れると見る見るうちに満点の星空に包まれていった。しし座流星群の時期である。しし座がどこにあるのかもわからないし、どんな星座で結ばれるのかさえわからないくらいの満点の星空の中、流れ星が一つだけはっきりと流れていくのが見えた。



明日、無事、船がでますように。



11月21日(土)

6:00起床、朝陽を見に行こうと空港方面へ歩くも曇って見えなかった。

7:30朝食
今日の天気予報、「波の高さは4mの予報」いよいよ出航が微妙に。
今日は夕方の3便で帰る予定だが、この調子だと早く帰ったほうがいいのかな?なんて話していたとき、他の泊まり客から


「安栄、全便欠航です!」


と一報!
安栄が出てないということは波照間海運も出ないだろうな・・・


「今日はフェリーが出る日だけどどうですかね~」とヘルパーさんが波照間海運に電話して聞いてみる。そして・・


「フェリーも欠航です」

ありゃありゃ・・・


けだもとのお母さんが現れ、
「えーと、今日帰りの飛行機の便の関係でどうしても石垣に帰らないといけない人、どれくらいいる?漁船がチャーターできるか聞いてみるから」

隣の西表に行って忘勿石の話を聞きに行くという男性2人組が手を挙げた。我々はどうしようか・・・。いちおう今晩、モーリーさん夫妻と合流する。夜の店も予約してあるという話だった。いっしょに行く人がいるのならそれに乗せてもらおうか、と手を挙げる。

が、「赤ちゃんは危ないかも」と止められる。
小さなプレジャーボートだから、もろに波をかぶるらしい。波も高いし揺れも激しいから大人ならなんとかなるも子供を乗せるのは、厳しい話をすると、命の保障もできないという。


「もう1泊は大丈夫ですよ。船が出ないから新しく来る人はいないから。」



連泊決定である。  


2009年12月14日

10ヶ月にして最南端へ⑤波照間でカンヅメ





石垣行きの船もフェリーも欠航し、漁船も望み薄となった今、今日の石垣の宿(ホテルククル)と翌日のレンタカー(OTSレンタカー)をキャンセルする。
共に電話で事情を話すと両方ともキャンセル料もとらずにキャンセルしてくれた。
ありがたい。



そんなわけで午前中は仲底商店や港に行ったりまったり過ごす。



今日、着ているTシャツは「粟国の塩」
2005年9月に長男、ノム・ヒョンと3人で粟国島に「ナビィの島」のロケ地を探しに来たとき、売店で売っていたもの。多分今も売ってると思う。そのシンプルかつ大胆なデザインにノックアウトされ、私はレッド、ノム・ヒョンはブルー、長男はネイビーと見事に色違いを買ってしまった。
その後も長男邸の余興で活用したり、あとは旅先で三人揃ったときに、一日は色違い組み合わせで行動することとなっている。(他には「尚円王と家来の長男、次男」なんていうのもあるが、これはまたの機会に・・)ただ三人ならネタとしていいのだが二人の時にカブって着てしまうとなにやら怪しい関係と思われそうだ。



さて、この粟国Tシャツであるが、仲底商店のお姉さんに「これ粟国で買ったんですか?」と聞かれ「シンプルでいいですね!」と評判となり、ものを買った後も「やっぱりいいですね~」名残惜しそうに背中を見る。また港の売店のおばちゃんにも「粟国行ったの?」「このTシャツいいね~」とこれまた大評判。
なかなか八重山の離島の波照間から本島近辺の離島の粟国に行く人はいないだろう。
そういえば長男もゲンキクールのTシャツを着ててヘルパーのお姉さんの話してたりと、沖縄関係のちょいマイナーでローカルな訳ありTシャツは話のネタにもってこいである。



昼を食べ長男と自転車で島一周










夕方からまたまったりとしそのまま夕食へ。
漁船で西表に行くといっていた男性2人組は、この波で「波照間へ行くのは大丈夫だけど帰りつらい」と漁船も来てくれず、結局、西表に渡れなかったという。こちらも「忘勿石」のガイドをしてくれる人に断りの連絡をしたりといろいろ大変だったようだ。

さて、この男性2人組、一人は体育会系っぽい人なのだが、もう一人は島のことや船のこと、飛行機のこと、そして沖縄戦のこと等々話を聞いていると、いろんな分野のことについて詳しい。こういうことを一言でいうなればマニアっぽい人となるのだろうか。マニアっぽい人ということになると困ったことに長男と話が合ってしまうのである、これが。

夜のゆんたくで、長男はそのマニアっぽい人と沖縄戦の話で盛り上がって誰もついていけなくなった。昼間、漁船さえ出ていれば、もしかしたら長男と20代の波照間ニアギャルとのロマンスも生まれていたかもしれなかったのに、まったく惜しいことをしたものだ。

もうひとりの体育会系っぽい人も結局話についていけず寝てしまった。
私も、夜の集落を散歩したり、宿にあった「ハテルマシキナ」という本を読んだりしていた。


「ハテルマシキナ」
波照間島で64年前の1945年に起こった「戦争マラリア」の話を描いたもの。
戦争マラリアとは・・・、「長男」のmixi日記に詳しく書いてあるのでこちらをみてほしい。


http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1349958535&owner_id=17380285



その本を読んでいる最中も、長男たちの会話が、ガイドの話、ガマの話、日本兵の話、原爆の話とどんどんすすんでいっている。最南端の島で宿の座敷にいるのだが、なぜか「うちな~」の座敷にいるような気になってしまう。全く恐るべしである。



************************



マニアなTシャツの話とか、マニアなゆんたくの話とか、なんかいつものマニアックな旅行記と変わらなくなってしまったが、今回のメインは本日11月21日に10ヶ月になった娘である。



石垣の宿がベッドでそれなりに大変な思いをしたため、なにより畳の部屋で和室というのがよかった。そしてけだもとさん自体も、3人の子供を子育て中であり、部屋には娘にちょうどいいおもちゃがいっぱいある。

ヘルパーさんや他の泊り客、ここけだもと荘にはいっぱいあやしてくれる人がいる。仮にお母ちゃんがシャワー浴びてたりとかちょっと外に出て行ったりしていなくてもあやしてくれる人がいる。今回はミーナ☆さんが娘の面倒を私以上に見てくれていて、本当にありがとう。娘もお母ちゃんべったりにならなくて済んだ。

そして娘のほうも、たとえみんながいる部屋にいても、お母ちゃんの部屋がわかっているのか、その部屋に向かってハイハイしていく。そしてその部屋に辿り着く。見事な帰巣本能というか、たった1日なのに方向感覚ばっちりではないか。一度誰もいないお父ちゃんと長男の男性部屋にハイハイしていったときもあったが・・・


また宿の中だけでなく、商店や食堂など集落にいても同じ。


娘を介して、いろんな人と触れ合えることができた。特に同じ年代の子を持ったお母さんなど話のきっかけになったり、こんなことは今までの旅を考えるとそうないことだ。
これも月齢10ヶ月を連れてという「今だけ」のものなんだろうけど、なんだか「今しか味わえない」かけがえのない宝物をもらった気持ちになった。


ほんとうに人の優しさや暖かさを身近に感じている。
広島空港で、那覇空港で、石垣で、波照間で、この旅で出会ったすべての人に「ありがとう」
そして、こんな気持ちを忘れそうになったら、またここにやってこよう。


明日は船は出るかな?  


2009年12月14日

10ヶ月にして最南端へ⑥晴れた!石垣へ!

11月22日(日)





6:30起床、朝焼けがきれい。風もない。

今日は島から出ることが出来そうだ。


 

欠航はなく、1便で帰る。
桟橋には、昨日、帰れなかった人がわんさかいる。安栄のほうは整理券を発行しているらしい。整理券を発行しない波照間海運にはさっそく長い列が・・・。船は82人乗り。これだけ乗れるのか?


無事、9:30に波照間港を出発。


なんとか並んでいた人みんな乗れたようだ。
気づけば、前のほうの3人掛けの席で、長男と昨日のマニアックな男性2人組と一緒に並んで座っていた。すっかり意気投合してしまったようだ。
ぎゅうぎゅうになりながらも無事、出発!


島に残る人が手を振ってくれる。
名残惜しい・・・と思うまもなく、船は外海に出て、ブォーーーンとスピードを上げグォーーーンと縦ゆれ。それでも2年半前に比べれば揺れは少ない。これは、もしかして乗った船が波照間海運だからか?(2年半前は安栄だった。)



10:30頃石垣に到着。

2日ぶりに戻ってきたフェリーターミナルではモーリーさん夫妻が出迎えてくれた。



「人数が乗れるように、車準備しましたぁ~」とモーリーさん。

「あの軽トラの荷台へどうぞ~」



あぁ、みんなで荷物と一緒に軽トラの荷台に乗るわけね・・・



軽トラの荷台に乗って、市内引き回しとは・・・、タイとかでこんな光景見たことがあったなと感慨深く思っていたら、人間用は別の車が準備してあるという。

あぁ、やっぱり、そうだよね・・・



モーリーさんの軽トラに先導されて、モーリーさんのミンサー織り工房へ。



染織工房「ピラッカ舎」

 
写真右)サガリバナの花が咲いていた。


畑の中の小さな小屋に一台の織機。軒下には,藍で染めた糸が干してある。
モーリーさんは、石垣に移ってからミンサー織りを習い、お店に商品を出している。もちろん、糸も自分で染めている。

織機は、もともとは大島紬用のものを、ミンサー織り用に改良したとか。
ミンサー織りの織り方や糸の染めかたを教えてもらったり、藍の染料などを見せてもらった。



その後、みんなで昼食へ。食事がゆっくりと出てくる店でまったりと過ごした。


再び「みんさー工芸館」に寄り、帰りの飛行機の時間も近づいてきたので石垣空港へ。


娘、さすがに疲れたかな。


モーリーさんご夫妻、貴重な時間を私達のためにありがとうございました。
今度はいっしょに夜、焼肉を食べ、川門さんのライブハウスにも行きましょう。
それから、ミンサー織で一眼レフを首からぶらさげるような「太いひも」を是非作ってください。難しいかな。



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20:00前、広島に戻ってきた。

朝9時半に波照間を出て、石垣で寄り道し、夕方の飛行機で那覇を経由して帰ってきた。

さすがに娘もぐったりして、広島空港に着いたときはぐずって大泣きだった。今日は横になって寝る時間が全然無かったし、自分の足でハイハイする時間も全然無かったし、さすがにストレス溜まっていたのかなぁ・・・

車でミーナさんを送り、家に帰る。

家の布団で横になるとバタンと寝てしまった。無理もない。
しばらく寝かしたものの起きない。ただ、日焼け止めも虫除けスプレーも塗ってるので、すこしだけでも風呂にいれようと無理やり起こし風呂に入れると、「もう好きにしてよ・・・」てな感じの目で見られて、そして風呂に入れたまま目をつむってしまう。
このときばかりは悪いことをしたなぁと思った。



10ヶ月を連れての旅。
結果的に波照間に二泊できたことがよりのんびりした旅になったよかった。
いろいろ道中、困難も多かった。だけど「行けばなんとかなった。」である。

それでも、まだもう少しは大丈夫だけど、これから幼稚園に行くくらいの歳になると今回みたいに民宿に泊まる旅ってのは厳しくなるなぁと思う。食事の面とか。そして「何も無くて面白くない」とか「お父さんだけで行って」とか言い出しそうだ。たしかに子供には決して面白い空間とはいえないだろう。
きっとその歳その歳の旅の形態ってのがあるだろうから仕方ない。
とりあえず子供の頃は電車とか飛行機とか世界地図とか一般に子供受けしそうなものを近づかせるくらいにとどめておこう。



まぁ遺伝子と脳の奥底に旅人の記憶を組み込ませることには成功したかな?
20年くらいたった後「世界一周してくる」とか言い出したら、そのときは長男にいただいた出産祝いの泡盛で乾杯しよう。








泡波を持って「酒がなくなったぞ~」とでも言ってるような娘。
  


2009年11月04日

2004年5月、ムアンシンにて

2004年5月、ラオスと中国の国境に近い町ムアンシンにて


15:00

まだシエスタから明けきらない町はとても静か
私も軽く眠り、シャワーを浴びて再び町へ出た


17:00

涼しくなり 風も心地よい 夕暮れ
町もマーケットも再び活気づく
町の大きなスピーカーからは
国営有線放送(?)が今日の出来事を流している(と思う)
その放送をBGMに(みんな聞いてるかはしらないが)
子供はドッチボール(もどき)に夢中になり
大人もバレーボールに熱が入っている
マーケットでは話に夢中になっている

国営有線放送からは中国系ポップスが流れてきた


裏通りに入る

メインストリートから一歩離れた裏通りは
日常の生活の場が広がっている
子供が遊んでいる
家族が屋外で団欒している
買い物帰りの親子とすれ違う
何気ない日常の一コマ一コマが視界に入ってくる
みんな「サバイディー」と挨拶する
ほんとに何気ない日常がこの時間にあふれ出していく
流れ出してきている


その全てを記憶していたい


そんな思いと裏腹に
なぜか
そこに向けてシャッターを向けることはできなかった
ただの通りすがりの身である私が
そのような場を
「ファインダー越し」
に眺めることがまだまだ早いような気がした
彼らは何も感じてないのかもしれないけれど

国営有線放送はまた今日の出来事を語りはじめた


19:00

町は静かにシャッターを下ろす
食堂のTVでは一休さんが放送されていた
エンディングの唄は日本語のままだったので、非常に懐かしかった



ムアンシン
ここは私がいままで行った中でいちばん奥といえる場所。
もしかして二度と行かない場所かもしれないけど、そんな場所でも、ありふれたかけがえのない日常が溢れている。
あの時あの場所での出来事は、今思えばなんだか夢の中にいたかのように思い出される。
これから先、またあの場所に行くことはあるのだろうか。

















  


Posted by tana at 20:14Comments(4)写真いろいろ

2009年10月17日

「この世界の片隅に」

「この世界の片隅に(上中下)」こうの史代著 双葉社

第二次世界大戦中、広島の漁師町に育ち絵を描くことが好きな少女・浦野すずは軍港・呉の高台の町に住み海軍で働く北條周作に嫁ぎ夫婦生活を送っていく……『世界の片隅』の物語


「この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。」

全体がほのぼのとした描かれかたの中、戦時下の日常の様子、ひとつひとつの描写がとても丁寧に描かれている。そしてどの日常でもあるようなエピソードも、緻密に、一読では気づかないような伏線や表現が散りばめられて成り立っている。
でも戦時下であるからこそ、ひとつ足を踏み外すと闇の部分に踏み入ってしまいどうしようもなくなっていく。


上中巻と読み終え、20年8月に向かって物語が進んでいるのだからと、ある程度の覚悟をして下巻を読んだのだが、想像以上だった。壮絶だった。

そして最後は幸せ(という言葉も違うような不思議なあたたかい感覚)になった。


この作品と出会うことができてほんとによかった。  


Posted by tana at 12:20Comments(0)映画,本,CD他

2009年10月12日

「プール」


「めがね」よりもストーリー性がある「感じる映画」。


”空を見ることなんてなかったなぁ”
たしかに普段空を見ることなんてないなぁと思う


”どうして私を残してタイにいってしまったのか”
じわりじわりと言えなかった言葉が言えるようになる、そんなとき


私はチェンマイには行ったことはないんだが、
耳に心地よいタイ語のアナウンス
街のマーケットに食堂
が懐かしく、また旅に赴きたくなる。


受け止め方は人それぞれだけど、自然、家族や身近な人との関係、大雑把に言うと生きていること、そんな「旅に出ると考えてしまうようなこと」を、映画館という特異な空間の中、スクリーン通じて感じ、考えてしまう映画だった。  


Posted by tana at 22:26Comments(0)映画,本,CD他

2009年08月25日

夏の終わり




たまたま近所であった夏祭り。たまたま被写体を遠くに撮ったら、なんとなく撮影のセットの中での祭りという雰囲気になった。  


Posted by tana at 22:43Comments(2)写真いろいろ

2009年08月18日

西表やまねこ診療所

 「西表やまねこ診療所」岡田豊

岡山の総合病院で外科医を10年経験した後、西表島の島医者になった著者の日常が紹介されている本である。


西表島にある診療所は東部と西部に一つずつの計二つしかない。医者はそれぞれの診療所に一人ずついるだけである。
隣にある人口70人の鳩間島には西表の西部診療所から1ヶ月に1回、巡回診療を行うのみである。
重病患者は石垣の病院にヘリ等で運ばれる。

私が以前旅した黒島では、診療所の前に「診療は木曜日の午前中9~12時」と張り紙がされていた。つまり1週間に1日、それも午前中だけしか医者が来ない島である。(2006年1月のこと:ちなみにこの島には交番はなかった)


離島医療といえばDr.コトー診療所が有名だが、このドラマに対して著者はこういう。

「ひとりのスーパードクターが私生活を犠牲にして成り立つ医療では、その人個人の頑張りで終わってしまう。」


「離島医療は、古い設備や周りの孤独感など壁は多い。最前線の診療所と後方支援の親病院がうまく連携し、うまく支え、はじめて成り立つ。」
そして「一定レベルの医師が診療所をリレーできる、どこでも一定の医療を提供、持続できるシステムが重要」と言っている。


今働いている医師が生き生きと働けることで、こういう環境で働きたいという人を育て増やしていくことにもなる。


病院は住民の安心感であり、いつでもそこにあり続けることが重要なのである。(学校も意味は違うが同じ意味合いを持つものだろう)  


Posted by tana at 21:51Comments(2)映画,本,CD他