2008年09月23日
真のリベンジ伊是名最終回~そして最終日~
9月23日(火)8:00頃

最終日
ビセザキの朝食。贅沢なひととき。
厨房の辺りからkiroroの「ベストフレンド」が流れる。次男が「ちゅらさんが始まるね」と言う。
というかほんとにちゅらさんが始まったかと思った。
ビセザキを発ち、瀬底島(↓)と名護に寄って、一気に高速で那覇市内へ、そして夕方の飛行機で広島へ帰国する。

妊娠7ヶ月目になったばかりの妻は、腹に子供がいる関係上、胃が上に圧迫されて、胃の入り口が開いたままになってるようだ。食べ過ぎたりすると逆流食道炎になり胃が痛むらしい。つわりが終わって妊娠5~6ヶ月の頃たびたびあった。
今回も前日まで暴飲暴食の上、ビセザキの朝食が旨くご飯のお代わりもしてしまい、更には妊婦は飲んではいけないといわれるコーヒーも「今日くらいは・・・」とガブガブ飲んで、結果、最終日の昼、胃の痛みに苦しんでいた。
そんなわけで、ノムヒョンオデッセイの後部座席に夫婦で陣取り、背中さすったり膝枕したりと私は介抱にいそしんだ。
本人達はそれなりにたいへんなのだが、結果的に後部座席でいちゃついているような姿を見せつけられきっと運転席と助手席の長男次男は怒り心頭であろう。性格の悪いドライバーなら、殺意さえ覚え、わざと後ろからぶつかっていくような運転をするかもしれない。
さて当の長男と次男はどうだったかというと、実は私も寝てしまったため詳しくはよくわからないのだ。失礼極まりない。失礼極まりないが、薄れていく意識の中、大まかな話は覚えている。
長「たしかもうすぐ『空き缶捨てたらあかんがなー』の看板があるぞ。」
次「・・・もう少しですかね(4日目のため、若干あきれ気味)」
長「ちょっと止まって!『ゴミはゴミ箱へポポイのポーイ』写真に撮らせて。」
・・・写真を撮った後
次「(半ばやけくそ気味に)そういえば、おんなの駅には寄りますか?」
長「いや、おんなの駅は看板の写真撮るだけだから無理によらなくても・・。」
・・・あぁメガネ兄弟がどんどん遠いところへいってしまう。
と感じた。
そしてまぁそれも仕方ないか。
あっという間に那覇市内に着く。(今日も運転ごくろうさま)
那覇市内に寄ったら確認しておきたい場所があった。
そこは・・・
9月上旬のとある日、長男からメールが届いた。
「新金一、ホームページも電話も通じないが、なにかあったのかね」
11月の宿を予約しようとして、通じなかったらしい。(ここで「9月でこれから沖縄に行く前なのに11月の沖縄の宿を取るんかい」なんて突っ込みは野暮である)
え?
私も確認するもののホームページも一部閉鎖されていた。その後長男が電話するもやはり通じなかったらしい。
新金一が閉鎖?うそだろう?
わからないまま時が過ぎ、那覇の公設市場に寄ることになったので新金一がどうなったのか気になったので行ってみた。
看板はそのままだったが、1Fのいつものフロントに入るドアがカーテンで閉ざされ中の明かりが無い。カーテンの隙間から覗くとフロントは完全にもぬけのから。
移転したなんて話は聞かないし、やっぱり閉鎖はほんとのことだったのか・・・。
思えばこことの出会いは2003年9月にさかのぼる。
初めて沖縄に一人旅に行ったときのこと(信じられないかもしれないがその時はまだ3回目の沖縄行きだった)。国際通り、市場通り、裏路地、首里近辺、南部へ向かうバス、金武に辺野古、ほとんどが初めてのものばかり。沖縄、言葉は通じるものの外国にいるような錯覚に興奮していたときだった。
そのとき飛び込みで泊まろうとここに電話するも3日間とも満室で宿泊を断られたのが始まりだった。
そして初めて泊まったのは翌年2004年2月。
マンションの一室(1Kから3LDKまでいろんなタイプがある)を借りるという斬新なスタイルだった。流しやポットが完備され簡単なものならここで食べられる。何故かタイプライターが置いてあった部屋もあった。未だに謎である。
その後、国際通り、公設市場、市場通りに5分でいけるという立地から、それ以降那覇に泊まるたびにここを使った。そして沖縄に行く人にも紹介しほとんどが好印象を持って帰国してきた。何回か通ったことで、ついに朝食のときのおばさんにはついに顔を覚えられるようになった。
そういえばチェックアウトの時「次は○月○日に来ますが空いてますか」と次回(だいたい2~3ヵ月後)の予約すらしたこともあった。
ガマに行くときは、みんな汚れた作業着(長男にいたっては敗残兵そのもの)という怪しい格好をしながらも(表向きは)いつもと同じような対応をしてくれた(土木作業でもしているとでも思ったのか)。
Fとあっちゃんが付き合いだして間もない頃、2人を含めた5人で泊まったときのこと。最初一つの部屋(3LDKか2DKくらいと思う)を予約したものの、Fが「やっぱり一つ屋根の下はまずいですよねぇ」と余計な気を遣い、男女別々の部屋に予約をし直したりということもあった。
途中、浮島タウンズ旅館と名前が変わった。でも看板は新金一のままだったり。
NAHAマラソンの時は炭水化物が完走したと聞いて「おめでとうございます」と祝福も。バナナやおにぎりの差し入れもあり応援するだけなのに「持っていっていいよ」と言われたり。
N原氏が二日酔いで朝食が食べれなくて、申し訳なさそうに「一人二日酔いでダメみたい」というと、「あ~、あの方ですか」と次男と勘違いされたり・・・
いろいろな思い出が甦ってくる。
ここを拠点にいろいろな沖縄を知った。表も裏も、裏の方が多かったが。
そして時が過ぎて、那覇以外に行動範囲が広がっていっても、なんだかんだと結局のところ、ここに戻ってきていたような気がする。足しげく通うことで沖縄に対して最初感じていた感動こそ薄れてゆくものの、この場所で刻々と変わっていく沖縄を眺めていたような、そんな感じすらする。
このように充実した6年間だったが、妻の出産という人生の一大イベントを前に、私もしばし沖縄と決別することとなった。
ここの閉鎖とは一切関係ないが、あまりのタイミングの良さに驚くも、まぁこんなもんかな。
時の流れといってしまえばそうかもしれないけど、
きっと居心地がいいのは一瞬で、
そういうものを見つけては消えてゆき、
その繰り返しで、
また新たな居心地のいい場所を探して旅するのでしょう。
9月23日18時10分、ANA462は那覇空港を離陸した。
窓の外にはまぶしすぎる夕焼けが広がっている。
そんな茜色の中、島の姿がだんだんと小さくなっていく。
そして雲に隠れた。
この子の首が据わる頃また来よう。
「真のリベンジ伊是名」 終わり
最終日
ビセザキの朝食。贅沢なひととき。
厨房の辺りからkiroroの「ベストフレンド」が流れる。次男が「ちゅらさんが始まるね」と言う。
というかほんとにちゅらさんが始まったかと思った。
ビセザキを発ち、瀬底島(↓)と名護に寄って、一気に高速で那覇市内へ、そして夕方の飛行機で広島へ帰国する。
妊娠7ヶ月目になったばかりの妻は、腹に子供がいる関係上、胃が上に圧迫されて、胃の入り口が開いたままになってるようだ。食べ過ぎたりすると逆流食道炎になり胃が痛むらしい。つわりが終わって妊娠5~6ヶ月の頃たびたびあった。
今回も前日まで暴飲暴食の上、ビセザキの朝食が旨くご飯のお代わりもしてしまい、更には妊婦は飲んではいけないといわれるコーヒーも「今日くらいは・・・」とガブガブ飲んで、結果、最終日の昼、胃の痛みに苦しんでいた。
そんなわけで、ノムヒョンオデッセイの後部座席に夫婦で陣取り、背中さすったり膝枕したりと私は介抱にいそしんだ。
本人達はそれなりにたいへんなのだが、結果的に後部座席でいちゃついているような姿を見せつけられきっと運転席と助手席の長男次男は怒り心頭であろう。性格の悪いドライバーなら、殺意さえ覚え、わざと後ろからぶつかっていくような運転をするかもしれない。
さて当の長男と次男はどうだったかというと、実は私も寝てしまったため詳しくはよくわからないのだ。失礼極まりない。失礼極まりないが、薄れていく意識の中、大まかな話は覚えている。
長「たしかもうすぐ『空き缶捨てたらあかんがなー』の看板があるぞ。」
次「・・・もう少しですかね(4日目のため、若干あきれ気味)」
長「ちょっと止まって!『ゴミはゴミ箱へポポイのポーイ』写真に撮らせて。」
・・・写真を撮った後
次「(半ばやけくそ気味に)そういえば、おんなの駅には寄りますか?」
長「いや、おんなの駅は看板の写真撮るだけだから無理によらなくても・・。」
・・・あぁメガネ兄弟がどんどん遠いところへいってしまう。
と感じた。
そしてまぁそれも仕方ないか。
あっという間に那覇市内に着く。(今日も運転ごくろうさま)
那覇市内に寄ったら確認しておきたい場所があった。
そこは・・・
9月上旬のとある日、長男からメールが届いた。
「新金一、ホームページも電話も通じないが、なにかあったのかね」
11月の宿を予約しようとして、通じなかったらしい。(ここで「9月でこれから沖縄に行く前なのに11月の沖縄の宿を取るんかい」なんて突っ込みは野暮である)
え?
私も確認するもののホームページも一部閉鎖されていた。その後長男が電話するもやはり通じなかったらしい。
新金一が閉鎖?うそだろう?
わからないまま時が過ぎ、那覇の公設市場に寄ることになったので新金一がどうなったのか気になったので行ってみた。
看板はそのままだったが、1Fのいつものフロントに入るドアがカーテンで閉ざされ中の明かりが無い。カーテンの隙間から覗くとフロントは完全にもぬけのから。
移転したなんて話は聞かないし、やっぱり閉鎖はほんとのことだったのか・・・。
思えばこことの出会いは2003年9月にさかのぼる。
初めて沖縄に一人旅に行ったときのこと(信じられないかもしれないがその時はまだ3回目の沖縄行きだった)。国際通り、市場通り、裏路地、首里近辺、南部へ向かうバス、金武に辺野古、ほとんどが初めてのものばかり。沖縄、言葉は通じるものの外国にいるような錯覚に興奮していたときだった。
そのとき飛び込みで泊まろうとここに電話するも3日間とも満室で宿泊を断られたのが始まりだった。
そして初めて泊まったのは翌年2004年2月。
マンションの一室(1Kから3LDKまでいろんなタイプがある)を借りるという斬新なスタイルだった。流しやポットが完備され簡単なものならここで食べられる。何故かタイプライターが置いてあった部屋もあった。未だに謎である。
そういえばチェックアウトの時「次は○月○日に来ますが空いてますか」と次回(だいたい2~3ヵ月後)の予約すらしたこともあった。
Fとあっちゃんが付き合いだして間もない頃、2人を含めた5人で泊まったときのこと。最初一つの部屋(3LDKか2DKくらいと思う)を予約したものの、Fが「やっぱり一つ屋根の下はまずいですよねぇ」と余計な気を遣い、男女別々の部屋に予約をし直したりということもあった。
途中、浮島タウンズ旅館と名前が変わった。でも看板は新金一のままだったり。
N原氏が二日酔いで朝食が食べれなくて、申し訳なさそうに「一人二日酔いでダメみたい」というと、「あ~、あの方ですか」と次男と勘違いされたり・・・
いろいろな思い出が甦ってくる。
ここを拠点にいろいろな沖縄を知った。表も裏も、裏の方が多かったが。
そして時が過ぎて、那覇以外に行動範囲が広がっていっても、なんだかんだと結局のところ、ここに戻ってきていたような気がする。足しげく通うことで沖縄に対して最初感じていた感動こそ薄れてゆくものの、この場所で刻々と変わっていく沖縄を眺めていたような、そんな感じすらする。
このように充実した6年間だったが、妻の出産という人生の一大イベントを前に、私もしばし沖縄と決別することとなった。
ここの閉鎖とは一切関係ないが、あまりのタイミングの良さに驚くも、まぁこんなもんかな。
時の流れといってしまえばそうかもしれないけど、
きっと居心地がいいのは一瞬で、
そういうものを見つけては消えてゆき、
その繰り返しで、
また新たな居心地のいい場所を探して旅するのでしょう。
9月23日18時10分、ANA462は那覇空港を離陸した。
窓の外にはまぶしすぎる夕焼けが広がっている。
そんな茜色の中、島の姿がだんだんと小さくなっていく。
そして雲に隠れた。
この子の首が据わる頃また来よう。
「真のリベンジ伊是名」 終わり
Posted by tana at 00:14│Comments(0)
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