2008年06月23日

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄


6月23日 今日も晴れ 暑い
今日はU原さんの車で移動となった。
今日は総理大臣も来るらしく、道路が一部通行止めになったりと厳戒態勢である。たいしたことはしゃべらないのに。
道すがら、警官の姿が見える。総理大臣もこれからこの道を通って平和祈念公園に入るのだろう。
我々は一足先に10時過ぎに平和公園に着いた。すでに駐車場は車でいっぱいである。見た目はタクシーなので特に怪しまれずに公園の中枢部に停めることができた。
午後はもっと車が多くなるという。
たしかに、11時半頃我々が平和公園を出て魂魄の塔に向かうとき、反対車線は予想通り大渋滞になっていた。

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄


ここにある平和の礎は、国籍を問わず沖縄戦の犠牲者の名前を一人ひとり刻銘している。
戦後から50年たった1995年につくられた。
沖縄の住民はだけでなく、沖縄戦で犠牲になった軍人(日本人、アメリカ人関係なく)台湾、韓国、朝鮮の人の名前もある。刻銘者の総数は24万人以上という。
勝った国負けた国関係なく、あの沖縄戦で亡くなった「一人の人間」としてその名前が刻銘されている。

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄 慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄

刻まれた名前を見たらあのときのことを思い出す。
家族総出でここに来て、子や孫にあのときのことを話す。
しばらくは戦争のこと話すこともできないくらいの状態だったことだろうが、50年の月日でその傷が少しでもやわらいできた。もちろん、今でも思い出すことさえ辛いことだろう。礎に刻まれた名前を前に涙を流し嗚咽するおばぁの姿が印象的だった。

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄


ここが出来て10年以上経った。デイゴが大きくなり木陰が出来ている。
その木陰に座り、あのときのことを思い出し話していく、そんな場所。

各町にも慰霊碑はあり、ここに来るのは1年に1回。そういう家族も多いという。
だけど一人ひとりの家族に起こった話を、語りつづけ、語り継げることができる場所ができたこと、ありつづけることが大切なこと。

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄その後、魂魄の塔へ。
戦後、住民の手で初めて建てられた慰霊碑。
南部の米須地域一帯は、沖縄戦で追いつめられた住民、軍人が多数命を失った所。この付近では住民が全滅した地域もある。沖縄戦直後、米軍の命令により米須に移された旧真和志村民は山野に散乱していた無数の遺骨を収容。収容された遺骨の数は25,000~35,000柱と言われている。戦火に倒れた人々を住民、軍人の区別無くまつった納骨堂を作り、その上に慰霊碑が作られた。住民、軍人の区別無くまつるというこの思想は「平和の礎」にしっかりと継げられている。

↓因伯の塔に公式参拝する長男
慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄その後は、広島の塔、開南健児の塔、ずいせんの塔、でいごの塔、ひめゆりの塔、白梅の塔、萬華の塔等々巡った。
それぞれの場所で慰霊祭が行われ、その準備段階、慰霊祭の最中、終わった後などいろんな表情を見ることができた。
年々遺族や同窓生が減っているところもある。なにしろもう63年だ。受付の人の話を聞いて規模は小さくなってもそれでも毎年続けなければという思いを感じた。

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄


(平和祈念資料館 展示むすびのことば より)


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