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2013年08月03日

「旅立ちの島唄~十五の春~」


3年前に自転車で走りつくした南大東の景色が随所に見られて心地よい。(北大東も少しあったし)


島ならではのエピソードも多いけど、改めて気づいたのは本人たちにとってみれば「15歳で島を離れる」のは当たり前のことだということ。そこから物語は始まる。


特に大きな事件もなく(15歳という年代を考えると大きなエピソードだったのかもしれないけど)、静かに旅立ちの時に向けて日々が積み重ねられていくのだが、ラストの三線のシーンでは涙が出た。


子供を持つと涙もろくなるとは言われるものの、やっぱりそうだ。
結婚式の花嫁の手紙じゃないけど、どうしても自分のムスメとダブってしまう。


(ネタばれ)
「この唄は泣いて唄ってはいけない」と三線の先生が諭していた。まさにそのとおりで、凛として立派に唄い上げる姿を見て、見送るものはまた感動するのだろう。

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沖縄本島から東へ360キロ離れた南大東島には高校がなく、中学を卒業して進学する若者は、必ず島を出てひとり立ちしていく。島唄グループでリーダーを務める中学3年生の優奈も、あと1年で生まれ育った島を出なければならない。家族と離れ離れになることへの不安や、未知の世界への好奇心を抱きながら、優奈は最後に島唄を歌いきって旅立とうと前進していく。  


Posted by tana at 00:15Comments(0)映画,本,CD他

2013年05月27日

「ひまわり 沖縄は忘れない、あの日の空を」

映画『ひまわり 沖縄は忘れない、あの日の空を』

沖縄復帰40年企画作品

石川・宮森米軍機墜落事故を題材に,現在の沖縄の姿を描く。




2004年、沖縄国際大学に米軍の大型輸送ヘリが墜落したことは知っていたが、それより以前、1959年6月30日、石川・宮森小学校に米軍のジェット機が墜落して学童11名、近隣住民6名の命が奪われ重軽傷者210名という大惨事になったことは知らなかった。(この映画の絡みで昨年はじめて知った)


映画自体としては演技やストーリーに稚拙な印象もあったが、こういうことがあったということを知ってほしい、風化させてはいけない、そういう思いを感じた。


自分の子を失い悲嘆に暮れる親の姿には涙が出た。
そして、残されたものは、53年たっても忘れることのない悲しみに今なお苦しめられ、自分を責めている。

「目の前で親しい人が殺された」
私にそんな経験はないが、そのような場面に出くわしたらどんな心境になるのだろう。
もしそれが自分の子供だったら、悲しみなんかでは語れず憎しみと自分自身に対する後悔しか残らないかも。


たしかに、今でも殺人事件など日常的に起こっているが、戦争となるとそんな比ではなくなる。
簡単に人が死ぬようになるのと引き換えに、生き残った者こそ深い傷を負って生き続けないといけない。
虚しいだけの結果になるのはわかってるのに、どうしてそういう道を選ぼうとするのか。


最近は「自分の将来」よりも、「自分の子供の世代にどんな世界を残したいか、どんなことを与えられるか」
そんなことを考えるようなった。


今だからこそ多くの人に見てほしい。

  


Posted by tana at 22:48Comments(0)映画,本,CD他

2013年01月26日

「メキシコホテル ペンション・アミーゴの旅人たち」

「メキシコホテル ペンション・アミーゴの旅人たち」
著者:大倉 直  発行:旅行人



1996年に購入したものの結局読まず、ずっと本棚の隅に。

たまたま見たブログに「ペンションアミーゴに泊まった」という話があり、そういえば、我が家にもペンションアミーゴの本があったよな~ということで、購入後17年の時を経て読み始めた。


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=オビの文章=
メキシコシティの安宿ペンション・アミーゴ。そこを交差していく様々な日本人旅行者たち。プロレス修行、駆け落ちカップル、現代美術家、流れ者…小さな夢とささやかな欲望、絶望と不安が織りなすひとりひとりの旅の物語。


著者の大倉直さんが、メキシコシティの日本人向け安ホテル「ペンション・アミーゴ」で管理人をすることになり、そこで出会った日本人旅行者をスケッチするノンフィクション。


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「なにか仕事をやろうよ。日本人の旅行者がたくさん歩いているところだったら、店の人は日本人を客にほしいと思っていると思うんだよね。そういうところに行って『私達は日本語のポスターを書いてます。ここがどういう店かを日本語ではり出せば、日本人がどんどん来ますよ』っていうんだよ。一枚そうだなぁ・・・・、50ペソくらいで売る。どう?」

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90年代前半のネットでの情報もなかった時代の旅人のエネルギーがみずみずしい。

たった20年程前のことなんだけど、メールもネットも使えない時代がとても昔のような気がする。メールやネットができて便利になる一方でここに書かれているようなエピソードもなくなるんだなぁとか思い巡り、そんな時代に戻りたいような気もする。

でもそう思って読み続けても、結局、今のこの時この世界に立ち返って、みずみずしく生きていこうという気持ちになるから不思議だ。  


Posted by tana at 09:09Comments(0)映画,本,CD他

2013年01月01日

2013.1.1

上の娘は3歳11カ月、下の娘は1歳9カ月に。
2013年も昨年同様、二人の子育てにイライラしつつも微笑んでしまう、それに明け暮れる一年になることでしょう。
今は人生の中でも、とてつもなくかけがえのない時間を過ごしていると思います。二人の子が大人になっても暮らしやすい社会となるようできることをやっていこう。

そんな中で少しでも、まだ行ってない場所に行ってそこを歩き、いつかはフルマラソンを走れるくらいまでトレーニングをし(とりあえずは10kmかな) 、その合間合間で山に登れるような生活ができればと思います。

去年と同じ年頭の誓いでした。「10km」のところも去年と同じです。(去年はmixiに書いてました^^)その去年の日記を見ると、去年も「10kmのところは去年と同じ」と書かれてました。
まぁ10年20年見据えても、いつまでもこのみっつができるくらいに、そして来年の日記には10kmがハーフとなるようにがんばろう。   


Posted by tana at 12:15Comments(0)無題

2012年12月31日

おーりとーり

 しばらく日記のようなものはmixi(tana)でも更新しています。(顔を出したりするため)

このブログでは私及び私を中心にした人々の旅日記(主に沖縄方面)で成り立っています。

  10.11南大東島へ
     妻子を広島に置いて、長男と二人、南大東島へ

  09.11娘、10ヶ月にして最南端へ~波照間~ 
     娘が誕生して初めての南への旅
     10ヶ月にして、はや最南端、波照間へ

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  妊娠記
     2009年1月21日、その娘、産まれました。その時の(妻の)妊娠・出産の様子をこちらに 
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過去の旅日記はこちらから・・・

  08,09伊平屋伊是名へ 
     長男32回目、次男29回目、私22回目にしてついに真のリベンジ伊是名!
  08.06慰霊の日の沖縄へ
     6月23日、慰霊の日近辺の沖縄を巡る旅(加えて長男はガマ、私は久高島へ)
  07.12炭水化物3年連続のNAHAマラソン
     そして、我々は2年連続のNAHAマラソン観戦
  07.02リベンジ伊是名
     前年のリベンジを果たすため、長男・次男・Fの最強メンバーで再度伊是名へ
  06.09伊是名へ?
     伊是名上陸を目指すも、超大型台風に行く手をさえぎられ・・・
  05.11戦跡を巡る
     第2回有限会社長男戦跡ツアー(当時、参加者は3人いた)
  05.09粟国島へ
     長男・次男とナビィのロケ地を探す旅

     
別館写真ブログ「旅の途中の日常」にて 07.09鳩間、08.09伊平屋伊是名 の写真 をアップ中!

***********************************************  
★★このBlogのすべてがひと目でわかるサイトマップはこちら!★★



沖縄病の必須アイテムといえば「ルートビア」   ルートビアと私
  


2012年12月30日

「旅の途中の日常」


これまで撮りためた写真で気に入ったものを1枚1枚、じっくり見てもらおうと写真ブログを開設しました。(2008年9月開設)
写真からの雰囲気を少しでも味わってもらえたら幸いです。

タイトルは「旅の途中の日常」です。

なお、ゆったりと忘れた頃に更新していきます。



  


2012年06月10日

「少年と自転車」

あらすじ

「ロゼッタ」「ある子供」のジャン=ピーエル&リュック・ダルデンヌ兄弟が、2011年・第64回カンヌ国際映画祭でグランプリ(審査員特別賞)を受賞したヒューマンドラマ。父親から育児放棄された孤独な少年が、ひとりの女性との出会いから自立していき、女性もまた少年を守ることで母性を獲得していく姿を描く。自分を児童相談所に預けた父親を見つけ出し、一緒に暮らすことを夢見る少年シリルは、ある日、美容師の女性サマンサと知り合う。週末をサマンサの家で過ごすようになったシリルは、自転車で街を駆けまわり、ようやく父親を見つけ出すのだが……。



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余計な物のないシンプルな映画。

ただ少年が自転車を漕いでいる長回しのカットで、こんなにそわそわするなんて、心がぐるぐるするなんて思わなかった。

闇を乗り越え、受け入れ、そして訪れる平和でしあわせでとても居心地の良い時。
だけどそれはあくまでも一瞬だということに気づく。
でも、その一瞬を糧に、来るべき一瞬を求めるから、苦難を乗り越えていく、乗り越えて行ける。

ハッピーエンドなんだけど、簡単にはそうならないよ、現実は厳しいよと言ってるようなこの映画の終わり方に、そんなことを考えた。


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そして、子供を育てるってことは簡単なことじゃない、とも思った。子供自身のこと然り、世の中の現実然り。
子供は3歳と1歳になった。
今の生活もそれなりに大変で、その反面すごく生きている実感があり、私はなんてことのない一日を楽しんでいる。
きっとこれからも想像し得なかった色々なことにぶち当たるだろう。
そのひとつひとつに悩みもがき苦しみ乗り越えていこう、そして、悩みもがき苦しんでいても何故か私は楽しんでいるのだ、と、改めて思った次第でした。  


Posted by tana at 22:18Comments(0)映画,本,CD他

2011年12月26日

旅行人「休刊」

昔の旅行人が好きだった。



「インターネットもブログもなかったころに仲間内でつくった90年代っぽい雑誌。」

飲み話の延長から本ができる感覚とか、合宿感覚でモノを作り出すという肌に感じる一体感とか。
そういえば宮田珠己氏がメジャーになるきっかけもこの旅行人だった。


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旅の本も売れなくなってき久しい。
書店の旅本コーナーもどんどん小さくなっていく。
そういったものは「世界一周ブログ村」に変わってしまったのかもしれない。
誰もが簡単に発信でき、交流でき、それこそリアルタイムで家にいながら世界一周を疑似体験できるような・・・

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方や90年代の雑誌には、
写真だってそんなにないし、あっても白黒だし。中に書かれていた地図が旅ごころをくすぐった。
そこにあるのは本当に未知の世界だった。

旅行人と歩き方の情報だけでカトマンズに降り立った時のドキドキ感を思い出す。


この雑誌との出会いがなければ、私は世界へ飛び立つことなどなかっただろう。
そして果てしなく広い世界など知らなかっただろう、きっと。



=関連記事= 
13年前の旅行人と「社員の星」

wonder  


Posted by tana at 22:42Comments(0)映画,本,CD他

2011年05月30日

「前へ!前へ!前へ!」

ボランティア、自己満足の末に与えられたものが、その先どうなっていったか。


・・・寄付した井戸は4年後、誰も使うことなく荒れ果てていた。
・・・送った衣類はマーケットに横流しされ、現地の産業を圧迫していた。。。。



12月に読んだ「僕たちは世界を変えることができない」の続編みたいな本だなと思い購入。(もちろん著者も内容も環境も異なる別の話であるが)


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「前へ!前へ!前へ!」税所篤快著 木楽舎 ¥1,300

グラミン銀行の話をきっかけに話の舞台はアジア最貧国のひとつといわれるバングラディシュへ。


「この国では貧乏人と田舎者はダッカ大学へは行けない」

そんな教育格差のバングラディシュ。
政治的なこと、宗教的なこと、問題はいろいろあれど、そんなバングラディシュの貧しい農村部に、同国初の映像教育プログラム「e‐Educationプロジェクト」を発足させ、貧しい学生でも国立大に入学出来るような教育環境を実現させた物語。


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2日で一気に読み終えた。

「アツい人というのはやったことはアツいのではなく、やってる過程がアツい。その過程で人を巻き込んでいく。」という話を聞いたことがあるがまさにそのとおりの行動力で周りの人を巻き込んでいき、目指すものめがけクレイジーに突き抜けていったノンフィクション。

明日からも、いや今からでもがんばろうと思える一冊でした。  


Posted by tana at 23:17Comments(0)映画,本,CD他

2011年05月21日

「だいたい四国八十八ヶ所」

もう2ヶ月以上も前のことになるのだが、「だいたい四国八十八ヶ所」を買おうとフタバに勇んで出かけたものの置いてなかったということがあった。ここではこういうマニアにしか受けそうにない本は売らないんだな、とその後フタバに行く道が遠のいてしまった。

そんなわけで次へ行く。
老舗の紀伊国屋にいけばあるだろうとたかをくくっていたが、ここにもない。

これは本屋に問題があるのではなく、本そのものに問題があるんじゃないかとますますほしくなったが、程なく東北の大地震があって、そんなことはふっ飛んでしまった。


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そんなわけで2ヶ月が経過。

先日、長男から「駅前のジュンク堂にだいたい四国八十八ヶ所があったぞ」と希少種でも発見したかのようにいうので、それならと私は天満屋のジュンク堂に行ったら、そこにもちゃんと生息していたのを発見し、今買わないと次に行ったらあとかたもなくなってるかもしれないと、購入に至ったわけである。





ちびちび寝る前に読み、一週間で読み終えた。


この話はwebではだいたい読んでいたが(若干肉付きもされているが)、本になるとwebで読んだのとまた一味変わっていた。根拠は何もないがこの人の文章は縦書きにして本にあるような字体がいちばん面白く読めるのかもしれない。


そして読むにつけ、旅というものに対する考え方が私と似ているなと改めて思った。


「何のために、なんて考えていると、旅はいつまでたっても始まらない。
意味を考える前に計画を立て、結論が出る前に出発してしまう。これが大切である。」


「旅の醍醐味の最たるものは、今自分がその場所にいるという実感ではないだろうか。」
「おお、私は、今、こんなところにいる!」


「旅の醍醐味のひとつは、わけのわからないことや、予定外の事態に遭遇することである。ちょっと予定通りに行かなかったといって苛立っては、旅の面白さは見えてこない。
時間や合理性に対する感覚が変容することであり、一筋縄ではいかなかったり、思い通りにいかなかったときに、その理不尽さややりきれなさを味と思ってこそ、旅が旅になるのである。」



「今、ここにいる」というワクワク感と、その予定調和がズレたことによるゾクゾク感を求めて旅するのだろう


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序盤はどちらかというと「私は今ここにいる」という旅の始まりに付きもののふわふわ感が読み取れたものの、特に中盤から後半にさしかかるあたり、旅にもずいぶん慣れてきて、地に足がついてきて、見えてくる世界も広がったのだろうか、文体にもより幅広さが加わって来て、格段に面白くなってきたのである。
そういう面では最後に近づくに従って、少しずつ惰性になってきたような文体も、すべてねらいだったのではないかとさえ思われる。

若いころのはじける様な勢いのある文体も当然良いのだが、中年と呼ばれる年齢になり、これまで旅を重ねてきた経験が加わったことで文章にも味が出てきたように思われる。
そんな味わいのある中に、時々若いころの勢いも時々のぞかせて、「私は今、宮田珠己を堪能しています」、という読中の感想に至ったわけである。


「人は充実の中にあるとき、なぜこうなったとか、そんなことはいちいち問わないものだ。ただ、今ここにこうしていてそれでいいという状態。まさしくそれが今という気がした。」

なるほど。


とりあえずはしまなみ海道を船で渡って、大三島の潮流体験船には乗ってみたい。そう思った次第である。
  
タグ :宮田珠己


Posted by tana at 22:10Comments(0)映画,本,CD他

2011年05月14日

妻の実家へ帰る

水曜日から妻が熱を出した。
今の時期はただでさえ忙しいうえ、今週は雨も降ったため私の仕事はさらに忙しくなり、22時に帰れば早いくらいで、うち一晩はほぼ徹夜になるほどの状態で、代わって子守りも出来ないくらいだったので、妻は「実家へ帰らせていただきます」と実家に帰っていった。


土曜日は休みなので私も妻の実家へ帰ることに。
呉方面なのでJRで30分くらいのところなのだが、ただJRでしゅぴっと帰るのもなんなので、路線バスでどこまでいけるかやってみようと考えた。
人間というものは忙しくなると何を考え出すかわからないものだ。


バスセンターまで出て、そこから東方向へ、海田あるいはその先の坂までは行けると思うが、その先のバス事情はわからない。実家の近くにもバス停はあったなぁ、ただ初めて妻の実家へあいさつに行って以来今日までそのバス停にバスが通ってるのをみたことがないなぁとか思いながら、行ける所まで行こう。で、どうしようもなくなればJRに乗ればいい。ちょうど今「だいたい四国八十八ヶ所(宮田珠己)」を毎晩読んでいるのでJR沿いに歩いてもいい。
人間というものは忙しくなると何を考え出すかわからないものだ。忙しいとは心を亡くすと書くのである。


土曜日。
そんなわけで朝早く起き、出していたクリーニングを取りに行ったら出発しようと思い、クリーニング屋に行って帰ってきた途端、見慣れた車が目に入った。


これは、うちの車じゃないか・・・


クリーニングを取りに行ってる5,6分の間に妻子が帰ってきたんかとさえ思うほどの衝撃だった。


よって妻に電話する。
「車で帰ってなかったんじゃね」
「じいちゃんに迎えに来てもらって帰ったよ。だいたい熱が39度もあったのに車運転できるわけないよ。」とのこと。
・・・たしかに。


まぁ妻の熱は木曜には下がったようでなによりであるが、私のバス計画は暗礁に乗り上げ、今後実現することはないように思われる。  


Posted by tana at 22:58Comments(0)無題

2011年03月31日

産まれるまでのこと と 産まれてからのこと

3月30日(水)

4:45
 「破水した!」
妻に起こされる。
 妻はムスメを寝かせるといっしょに寝てしまうから朝早く起きて保育園グッズの裁縫をしていたところだった。
 妻の実家と病院に連絡し、そのまま病院に直行する。

6:00
 病院に着いて、診察をするとそのまま入院決定となった。経産婦のため陣痛が10分間隔となると入院である。陣痛はまだ30分間隔で、子宮口はまだ3cmしかあいてないが、破水してるため陣痛がどうとか有無を言わさず抗生剤を点滴しなければならないため即入院である。

 陣痛室に通される。ここで陣痛が激しくなるのを待って、激しくなるととなりの分娩室に移され子がポーンと出てくるというわけである。非常に簡単にいえばであるが。

7:00
 妻の実家からじいちゃんばあちゃんがやってきた。
 私は立ち会いをするため妻のサポートに徹する。その間ムスメをどうするのか?さすがに2歳そこらのムスメを立ちあわすわけにはいかない。ということで、しばらくムスメのみ呉の実家に里帰りである。
 里帰りであるが、父親母親が同時にいないというのはもちろん初めて。じいちゃんばあちゃんにはなついているものの、本当にムスメ一人だけでやっていけるのか。うまくご飯を食べたりとか、ちゃんと寝ることができるのか?まぁ昼間は保育園にいったりしてるのでお母さんがいなくても大丈夫だろうが、夜はどうか?
 心配でいっぱいだが、頑張ってもらうしかないのだ、と運を天に任す。

10:00
 子宮口もまだそんなにあいてないし、陣痛も強くないので当分は産まれないだろうとのこと。
 じいちゃんばあちゃんにムスメを連れて帰ってもらう。しばしお母さんとお別れだ。今度会うときはお姉ちゃんになってるかな。
 そして生まれそうにはないので、私も一旦職場へ行き、数日休むことになるので、仕事を簡単に引き継ぐ。病院が職場と近いのがよかったし、また、年度末のこのクソ忙しいときにいやな顔もせず仕事を引き継いでくれ本当にありがたい。

14:00
 いっこうに妻の陣痛が強くならない。私も午後から仕事を休みにしたのでヒマである。
 妻が言う「保育園グッズの裁縫道具持ってきて」
 と、破水のきっかけになったグッズを持ってこいということだ。そう、サポートとはこういうおつかいもやるのだ。まぁ、どちらにしてもやらねばならぬこと、時間のあるときにやるのがいいだろう。と、一旦家に帰る。

15:00
 依頼のブツと、陣痛室で読む本を持って病院に戻る。今は本を読める状況なのだ。
 15分に1回くらい陣痛が来る時もあるが、まだまだ弱い。巡回に来た助産師さんも「今日は産まれませんね」ときっぱり。
 結局、妻は保育園グッズの裁縫を終わらせ、私もこんなこともあろうかと先日図書館で借りた本「大人の探検ごっこ」を一冊読み終えた。
 これも高貴な時間なのかな。

16:45
 そんなこんなで1時間くらい陣痛が来ない。
 今晩はないだろうからと、私も実家に帰る。
 ムスメを寝付かせるときに、いきなり母親だけでなく父親までもいなくなるのはさすがに辛いだろう。寝かしつけるまで実家にいよう。その後戻ってこようと私も実家に帰った。

18:20
 実家到着
 晩御飯を食べ、夜、20時くらいに寝かそうとするも、ムスメ興奮してるのかなかなか寝ようとしない。いっしょに本を読んだりいろいろするも、ここは私の寝るところじゃないとでも思ってるのか、布団を抜け出し、台所を行ったり来たりする。もしかしたら、ムスメが寝たら「父ちゃんは母ちゃんのところにいくからね」って言ったから、警戒して寝ようとしないのか?

22:00すぎ
 ムスメ力尽きたのか寝る。
 ただし妻よりのメールで今晩は陣痛きそうにもないとのこと。夜泣きも心配なので今晩はムスメと寝て、次の日の朝、広島に帰ることにした。
 ムスメも何度か夜泣きする。やぱりさびしいのか?でも一緒にいてよかった。


3月31日(木)

結局7:30起床
 妻も陣痛は10分おきくらいになったが、それでもまだ弱いらしく。明日から誘発分娩するだろうとのこと。
 私もムスメも普通どおり朝ごはんを食べる。

9:00
 朝の診察が終わって妻より連絡がある。今日から誘発分娩をするようになって同意がいるからすぐ来てという。そろそろ行こうと思ってたところであるが即出発。ムスメに「お父ちゃん、お母ちゃんのところに行ってくるね」というとムスメさびしそうにうつむいていた。

10:15
 病院到着。
 誘発分娩と帝王切開についての説明を受ける。
 今日は「プロスタグランシンF2α」、明日は今日よりも少し強い「アトシン」、それでもだめなら帝王切開ということらしい。ちなみに「アトシン」は震災の影響で流通が滞ってるのか残り少ないという。明日の分は大丈夫らしいが、今後はなくなることもあるのだろうか。ここでも震災の影響を感じる。

11:00
 誘発剤の点滴スタート。40mgからはじめて、徐々に20ずつあげていき、最終的に220mgまで強くするわけである。序々に陣痛は強くなり、だんだんと間隔も短くなってきているが、まだまだ声をあげるまではない。
 ちなみに昨日は後からやってきた5人の妊婦さんに先を越されたらしい。

13:00
 「帝王切開にしましょう」
 斜め前のベットでこんな声がする。斜め前の人は午前中からずっと喘いでいたのだが、順調に産まれないのか理由は分からないが即決であった。
 決まるとそこへ助産師看護師さんがドドドッとやってきてあっという間に妊婦さんを分娩室に運んで行った。「素早い連携プレーだなぁ。」と妻、感心する。感心する余裕があるのである。

15:00
 さて、感心はいいのだが、こちらは誘発剤をはじめて4時間が経過している。
 陣痛は3~4分おきだが長くは続かない。今日分の誘発剤も残り少なくなってきた。あと2時間くらいがヤマであるが、同時にお互い「今日は無理かな」という思いもよぎってくる。いやいや今日産むぞ。
 このとき私は何をしているかと言うと、陣痛がやってきたときにマッサージするのであるが、まぁマッサージと言うよりもツボを押すようにギューっと押すようなものである。「そこじゃない」「もう少し下」と言われながらもこれをひたすら続ける。

16:00
 誘発剤が残り100mgとなったところで、本格的に痛がり始める。これまでは呼吸の延長のような声だったのが、子がはまってきたのかいい声が出るようになってきた。これはもしかして今日産まれるか?
 一度トイレに行く。戻って再度装置をセットしてもらうも今度は子の心拍数とかの数値が見れなくなったので、再度看護師さんを呼んで装置をセットしてもらおうとすると、速攻「分娩室へ行きましょう」と言われる。
 

17:18分娩室へ
 「ご主人様はここで待っててください」といわれ待つ。
 ぽつりと陣痛室で待たされる。昼間同様、見事な連係プレーで妻は分娩室へ連れ去られてしまった、今の状況がよくわからない。もう産まれるのか、はたまた何か異常があったのか?いろいろ頭の中をよぎる。

18:00前、ようやく分娩室に連れて行ってもらえる。
 そこには喘ぎきっている妻を取り囲むように先生や助産師さん、看護師さんが立ちはだかっている。
 赤ちゃんは最後の壁を超えるところまで来ているらしい。
 「あともう少し、もう頭でてるからね」
 もうそんなところまでいってるのか。なんて思ってる間に

 「出た出た出た出た」

18:09 元気な産声がした!産まれた!

 へその緒の処置をされて「目の前に置きますよ」といきなり妻の目の前に置かれる。
 真っ赤な赤ちゃんだ。というかおさるさんみたいだ。ようやく会えた。こんな顔してたんだ。
 体重は2,902gとやや小さいが、泣き声は上のムスメの時よりも大きいような気がする。
 私は分娩室にいた時間が身近ったから?なんとなく、上のムスメの時よりも冷静に状況を眺められた気がする。

 あとで妻に聞くと、私が一人待っている間、分娩台で妻は先生、助産師さん、看護師さんの取り囲まれて子宮口が開くよういろいろぐりぐりされていたらしい。
 
19:00頃

 カンガルーケア
 やはり今回も妻の出血が多いらしく、もうしばらく安静にしておくようにとのこと。
 隣の分娩室では未熟児が産まれたらしくまわりの助産師さんや看護師さんはみんな慌ただしそうで、こちらの静けさが際立っている。
 3人だけの静かな時間が過ぎていく。 
 産まれたての赤ちゃんが乳を探し口をパクパクさせるさまを見ている。
 何かを成し遂げたものだけが味わえる贅沢な静寂の時間をしばし味わう。 

22:00頃
 私ひとり実家へ帰ってきた。
 上のムスメは実家の布団の中、しまちゃんを従えて一人で寝ていた。
 「赤ちゃん産まれたよ。おねえちゃんになったね。でも、無理にお姉ちゃんになる必要はないからね。」  


Posted by tana at 18:09Comments(0)無題

2011年03月16日

2011.3.11前後の一週間

3/9(水)

妻、検診。
子はまだ2,600gだけど、子宮口が2.5cm開いているらしい。「来週には産まれてるよ!」と言われたらしく焦っていた。予定日は30日だが、2週間早い。
そんなわけで職場の近くの保育園に一時保育の申請に行く。

また、内診されたため、「おしるし」のようなものがあったという。内診が原因なのか、本当のおしるしなのか?
まだ、名前は決まってない。


3/11(金)

そんなわけで職場の近くの保育園に一時保育の詳しい話を聞きに行くが、慣らし保育がいると言う。慣らし保育がいるとは言うがキャンセル待ちで次の週も木曜日しか空いてないという。
ムスメは今、車で40分の可部にある妻の職場の保育所に毎朝預けており、これからだんだん運転も辛くなってくるしと、とりあえず一時保育の登録はする。

職場に帰ってくると、宮城県で震度7の地震があったと聞く。
程なくして、三陸海岸に大津波が襲ってくる様子がテレビに流れた。それはまるで映画を見てるようなとんでもない光景。「これが津波か・・・」と絶句するくらいの光景。
自分の家が車がいとも簡単に・・・そんなことを思うと心が痛む。

広島にも津波注意報が発令されたので、私はそのまま注意報解除されるまで職場に待機。そのまま職場で一夜をあかすことになった。夜中も長野で震度6強が起こったり、頻繁に余震があり緊急地震速報が起こったりと、戦争中ってこんな感じなんだろうかと思う。

今、産気づくなよ。


3/12(土)

朝8:00、交代の人と変わる。
一夜明けてテレビで見る被災地の姿に唖然とする。戦争の後みたいな焼け野が原。でも現実の姿というのに言葉が出ない。

昼間はほとんど寝てたためあっというまに夜。
妻、夜、微弱陣痛が2回、そんなわけで妻の実家のじいちゃんばあちゃんを呼ぼうかとまで話したが、その後消えていった・・・。でも、今週あたりかな?

ムスメも、お母さんが入院するとか、お父さんが保育園連れて行くとかいろいろ言ってるから、お母さんがいなくなるというのがわかるのだろう。これまでにもまして「抱っこして~」と、お母さんべったりである。

家の外も中も大変なときだけど、できることをひとつひとつやっていこう。

名前の候補が3つに絞られた。


3/13(日)

福島第一原発の事故。
原発などのような危険な発電はやめて、水力発電と太陽光発電と風力発電で国中埋め尽くせば、原発分の電力を賄えるのではないか。これで雇用も生み出せば一石二鳥ではないか、と思う。一定規模以上の企業は自前で発電しなさいとか。それでも電力が足りなければ節電すればいい。節電しても足りなければ寝ればいい。
でもそうさせない力が働いているんだろうと思わせるような保安院と東電の会見だった。

今日も微弱陣痛が1回あったのみ。なんだかもう少しかかりそう。
私も明日から普通どおり仕事に行くことになりそうだ。

ネットで世界からの日本への祈りのメッセージを見る。こんなときだが世界は素晴らしいものだと改めて思う。


3/14(月)

ムスメ、久々に夜泣き。赤ちゃん返りかな?でもまだ2歳だししょうがないよな。

震災報道ばかりのテレビの中、教育テレビをふとつけると「おかあさんといっしょ」や「いないいないばぁ」をやってた。ムスメ、テレビにかぶりつく。こら、もう少しテレビから離れなさい。
震災報道ばかりのテレビの中、被災地でテレビ見れる環境にある子供たちは喜ぶだろう。
子供の笑ってはしゃいる声を聞けば、自然と大人も頑張れるものだ。

ようやく名前が決まった。


3/15(火)

原発は、さらに大変な状況になってきた。
水力発電と太陽光発電と風力発電で国中埋め尽くせという思いは変わらないが、福島第一原発内では作業員が命をかけて作業している。作業員はけっして普段は優遇されてはいないような末端の社員や下請けの業者だろう。

ムスメ、最後の可部の保育園。9月末から約半年、家族みんなよく頑張ったと思う。
そして、お腹の中の子が産まれるまでは、お母さん独り占めだよ。

夜、静岡で震度6強。もうなにが起こってもおかしくない気分になる。


3/16(水)

ムスメの4月からの保育園が決定!

妻、検診。
子は2,890gとだいぶ大きくなった。子宮口は2.5cmのままだが、いつ産まれてもおかしくない状況のよう。しかも経産婦だからコトが始まるとあっという間らしい。

夜、お腹の子が恥骨にはまってくる感覚がするという。
今晩なのか、今週なのか、まだ先なのか、それままだわからないけど、いずれにしても産まれてくる日は近づいてきているようです。

今、出来ることを、微力ながら、積み重ねていこう。
その繰り返しで、世界は変わっていく。  


Posted by tana at 20:00Comments(0)無題

2011年03月05日

「ときどき意味もなくずんずん歩く」

「スットコランド日記深煎り(宮田珠己著)」をさすがにそろそろ買おうかと思ったが、一足飛んで「だいたい四国八十八ヶ所」を買うことにした。
「だいたい四国八十八ヶ所」なにやら予想外に売れているらしく、重版も決定したらしい。

そんなわけでいつものフタバメガに行く。


・・・ない。


旅本コーナーにあるだろうと勇んだが、高橋歩はいっぱい平積されているのに、こちらは「わたしの旅に何をする。」がぽつんと一冊あるだけで、宮田珠己のみの字もない。もちろんエッセイのコーナーにもないし、ましてや新刊コーナーにもない。

検索があったので探してみると「在庫なし」

・・・なんということ。

全く何やってんだ、フタバ図書。そんなわけで紀伊国屋の偉大さを改めて感じたわけでした。



そんなわけで何も買わずに出ようと思ったが文庫コーナーでつい「ときどき意味もなくずんずん歩く」(幻冬舎文庫)を手に取ってしまう。これは「52%調子のいい旅」を文庫にしたものである。


その本を手に取ったまま、そのままレジへ。結局勢いで購入した。
「52%調子のいい旅」を持ってるにもかかわらず・・・である。




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家に帰って読んでみると不思議なことが起こった。
読んでみたら前読んだ時とこの本の印象が違うのだ。何故だかわからないが、この本とても面白い。


いや、もちろん面白いにこしたことはないのだが、私が感じた違和感とは「52%・・・」を読んだその当時、私はその本に対し何か物足りないな・・・と思っていたから。
「52%・・・」を買ったのは2003年頃、あれから8年近く経過し、印象が変わったのだろうか?
当時の物足りなさが、あまり旅エッセイという感じではなかったからなのか、これまでの「旅の理不尽」や「私の旅に何をする」に比べて突き抜け感がなかったからなのか、それとも文体のマンネリ感だったのか、今となってはわからないが。

とにかく、今回読んで面白かった。


その面白さはただ爆笑するだけというものではなく、計算する気はなくても奥深くで自動計算されているような、なんというか完成された落語のような面白さである。


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なお、「52%調子のいい旅」については、こちら(辺境の旅はゾウに限る)でも記載しています。
「ディーヴ(この本では「幻の町」)」の話  
タグ :宮田珠己


Posted by tana at 22:52Comments(0)映画,本,CD他

2011年02月15日

「世にも奇妙なマラソン大会」

「スットコランド日記深煎り(宮田珠己著)」をそろそろ買おうかと思ったが、結局となりにあった「世にも奇妙なマラソン大会(高野秀行著)」を購入。
なにしろオビの言葉は「ときどき意味もなくずんずん走る!ⓒ宮田珠己」


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「世にも奇妙なマラソン大会」
深夜のモヤモヤタイムに思わず申し込んでしまったのが、西サハラの砂漠を走るマラソン大会。砂だらけの42.195キロを、それまで10キロしか走ったことのない著者は走り切ることができるのか。いやなぜそんなアホな行動に出るのか。
高野秀行の真骨頂である「間違う力」全開の作品集。


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(著者・高野さんのブログより、サハラマラソンについて抜粋)


今回私が参加したサハラ・マラソンは、別に過酷さが売り物ではない。
それより「変」なのである。

なぜなら、サハラ・アラブ民主共和国、通称「西サハラ」と呼ばれる未確認国家の独立運動を支援するため、アルジェリア領にある彼らの難民キャンプ周辺の砂漠で行われたからだ。

西サハラはかつてスペインの植民地だったが、
スペインが撤退した直後、隣国のモロッコに占領されてしまった。
住民である「サハラ人」はモロッコ人とは別の民族であり、独自の国家をもとうと
モロッコの弾圧に立ち向かって武力闘争をはじめた。
そのゲリラは「ポリサリオ戦線」と呼ばれる。

1991年にモロッコとポリサリオ戦線は停戦し、国連による住民投票が行われることになったが、モロッコの数々の妨害により実施されないまま20年近くが過ぎている。

モロッコの弾圧から逃げたサハラ難民がいまだ20万人も、草木のほとんどない砂漠のど真ん中に暮らしている。
それがサハラ人難民キャンプ兼西サハラ亡命政府の拠点であり、
つまりポリサリオ戦線後援のマラソン大会なのである。 


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話は、勢いで参加することを決めてしまったという「やってしまった感」の中に、知らない土地で謎のマラソンに立ち向かうという「かつてないワクワク感」が同居して、次の展開が楽しみになる。

軽妙な文章でもあり、妻子が寝静まった夜中に一気に読もうと思っていたが、ムスメを寝かしつけるときに、不覚にもいっしょに寝てしまい、朝を迎えてしまった。不覚だった。
そんなわけで今日、寝転がって読んでると、ムスメが腹の上にやってきて「遊ぼう」と邪魔をする。ムスメを左手で転がしながら、右手に本を持ち、意地になって読んでいた。そのうちムスメが「ちゃんと本気で私と向きあえ」といわんばかりに本を奪い取ろうとするので、録画しておいた「いないいないばぁ」を見せおとなしくテレビに見入ってもらった。たまにはこういう試練も必要だろう。


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「マラソンの勝者はひとりじゃない、完走したランナーみんなが勝者なんだ」


旅人が泊まった宿で一緒になった人と夜、ゆんたくをするように、山に登る人同士が、登る途中で、ピークで、すれ違いざまに話をするように、ランナーにとって、マラソン大会とは祭りのようなもの。
タイムがどうかとか完走できるかどうかとか・・・、もあるけれど、同じ環境、同じ境遇の中で時間を共にするもの同士、同じ話題で話ができる、仲間になれるということが、楽しいのである。


いつかは世界一周・・・、まではいかなくてもいいから、まだ行ってない場所に行って、そこを歩き、
いつかはフルマラソンを走れるくらいまでトレーニングをし、(とりあえずは10kmかな)
その合間合間で山に登れるような生活。


年頭の誓いではないが(まぁ2月だけど)、
今年だけでなく、10年20年見据えても、このみっつができるくらい、今は体力を蓄えておこう。



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PS:この本は他にも短編は何編か入っているのだけど、その中の「名前変更物語」には久々にやばいくらい大爆笑してしまいました。電車の中で読んでなくてよかった。
  
タグ :高野秀行


Posted by tana at 23:15Comments(0)映画,本,CD他

2011年01月21日

HAPPY HAPPY 2歳





まだまだ寒いけど、陽射しに春の兆しが感じられるこの日
あなたは産声をあげました

あれから2年、お母さんもお父さんも2歳です

これからも少しづつでもいいから一歩一歩成長していこう  


Posted by tana at 18:58Comments(0)無題

2010年12月19日

「僕たちは世界を変えることができない。」


150万円で小学校が建つ!

ある大学生が
思いっきり背伸びして大学デビューし
カンボジアで警察に追いかけられ
小学校の子供たちに元気をもらい
エイズ病棟で泣き
義足の少女と笑い
ゴミ山でヘドロにはまる。

人並みに遊び、人並みに勉強する、フツーの大学生たちがカンボジアに小学校を建てるまでのちょっとHな奮闘記


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神保町のアジア文庫でこの本を見つける。

下ネタが多いのでどこの出版社からも出版を断られてしまい結局自費出版で出した本らしい。
が、なかなかにうまい文章でとても読みやすく、東京からの帰りののぞみの車中で一気に読み終えた。

大学生がボランティアでカンボジアに屋根のある小学校を建てる話。
カンボジアの子供たちのため、というよりも、自分たちのワクワクドキドキのために活動を始めるも、初めて訪れたカンボジアで日本とは違う現実を肌で感じ、自分たちも成長していくというノンフィクション。

迷いながらもストレートに訴えてくる言葉は共感できるものが多い。

綺麗事や正義感は棚の上に置いて、今日、自分の身の丈で自分のできる最善のことをやればこれでいいのだ。
読んでる途中は次の展開にとてもワクワクし、読み終えると自分も何かやってやろう、精一杯楽しく生きていこうと思える本。

この本との出会いは本当に偶然なのだが、東京まで行ってよかったと思える一冊だった。


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いろいろ調べていくと、どうも来年の秋、映画化されるようですね。  


Posted by tana at 22:07Comments(0)映画,本,CD他

2010年11月04日

南大東島へ①旅立ちとムスメ

うちのムスメはもうすぐ1歳10ヶ月になる。
だいぶ言葉をしゃべるようになり、たとえばケータイが鳴ってると「でんわ!」って言って教えてくれる。また、保育園でしているのか「結んで開いて」を歌いながら踊ったり、親バカと言われようとかわいいのだ。そして相変わらず休みの日は帽子かぶって靴はいて(最近は自分で履けるようになった)公園行こうとアピールする。
そんなわけで休みの日に仕事とか歯医者とかその他所用で一人で外に出ようとすると、「さっき靴下履かせてくれたやんか。これはどういうことだったんだ?」と足を指さして泣いたりしてそれは大変だ。

平日は朝とフロの時くらいしか会う時間がないけど、休日はけっこう父ちゃんべったりになって、なんとも嬉しいものである。


11月2日(火)

さて、南大東島へ行く前の晩、風呂にて重大発表!
「お父ちゃんは明日から4日間、旅に出てくるからね。4日後の夜に帰ってくるから、その間はお母ちゃんとおフロ入ろうね」
・・・ムスメは下を向いて固まっていた。心持ち寂しそうな顔もしていた。
あ~、言ってることわかってるんだな。

その夜、ムスメはなかなか寝なかった。
もう遅い時間だし、十分眠いはずなのだが、目を開けたまま天井を見ている。このまま寝てしまったら、起きたら父ちゃんはいなくなるのじゃないか、なんて考えてるのか?だったら嬉しいけど。

ようやく目をつぶって寝たようなので、私は寝室を出て荷物の準備をする。
部屋から出た瞬間に「ギャーーーー」と泣き声。
また寝室に戻ってとなりに行くと泣きやんだ。もうしばらく添い寝だね。そして安心したのか、夢の中へ落ちていったようだ。。。


うーむ、明日、出発するのが非常に忍びない。


11月3日(水:祝)

出発の日は5時起床。もちろんムスメはまだ寝ている。
勝手に出ていったと思われるのもなんなので、寝ているムスメを抱き上げ「じゃあ言ってくるよ」という。
ムスメ泣く。
ただこれは、お父ちゃんが出ていくからというのではなく単に気持ちよく寝ていたのを無理やり起こされたのがイヤで泣いてるようだ。
こういうときはお母ちゃんじゃないとだめ。お母ちゃんに抱きかかえられ玄関でお見送り。


さぁ出発!である。



朝6時、まだ夜は明けてなく、ようやく東の空が白んできたくらいの暗さである。



8:30広島空港発

当日の天気は晴れ。窓側の席だったので、景色がよく見える。





広島市内~宮島~山口県~瀬戸内海(伊予灘)~国東半島~阿蘇山~熊本~鹿児島・・・と地図と同じ景色がよく見え全く飽きない。
(写真上:国東半島、写真下:阿蘇山が良く見える)


10:30那覇空港着


妻に無事到着のメールを送り、その返事を読むと、どうもムスメはあれからドアが閉まった後、「待ってぇ~」と泣いたらしい。なんとかまた寝かすも、起きたら「お父ちゃん、お父ちゃん」と探していたようだ。


うーむ、本当に忍びない。。。
でも那覇まで来てしまったし、もう帰るわけにはいかないのだ。


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それから2日経った日のこと、旅中時々妻にメールを送っているのだが、ケータイにメールが届くと「でんわ!」というだけでなく「おとうちゃん!」と言うようにもなったという。

そうそうたった4日間だ、父親の存在を忘れるでないぞ。
  


Posted by tana at 22:45Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ②離陸、そして南大東島到着

11月3日13:00 那覇空港3階JALチェックインロビーにて長男と合流

合流するやいなや、長男はおもむろにバックから地図を取り出す。
「県史の本から南大東の戦跡の地図をコピーしたもの。時間もあるしひとつひとつ回ってみよう」
見てみると国土地理院の南大東の地図に戦跡がマーキングされている。
この人はどこに行っても誰と話しても、話すテーマにブレがないことをまた今回改めて認識した。


まぁいい。レンタカーも借りてない歩くスピードの旅だ。いろいろ寄り道道草をして彷徨っていこう。


南大東島は沖縄本島から400km東に浮かぶ小さな島。
北大東島、沖大東島と三島で大東諸島を形成している。その中の一番大きな島が南大東島である。
大東諸島の周囲300km四方に島はなく、文字通り絶海の孤島と呼ぶにふさわしい場所。
周囲をとがった岩で囲まれて、ビーチもないため、開発業者も手を出せず、また沖縄の象徴のような赤瓦の家もなく、ただただサトウキビ畑が広がる素朴な風景が残っているという。


13:20頃、特に怪しまれることなく保安検査場を通過。
そういえば那覇空港でJAL系を使うのは初めてだ。空港のつくりはいつも使うANAをそのまま左右対称にしたもの。それだけなんだけどなんか変な感じがする。

そして我々の乗る南大東行きRAC867は、搭乗口28番、予想通りバスに乗って飛行機に搭乗する搭乗口だった。


 



客層は地元の人か土木作業員がほとんど。観光客は我々含め3~4人だろう。(こういうところでカメラを取り出し写真を撮り出すと観光客というのばれてしまうので注意が必要である)


  

バスのような2列×2列の4列シート、一番前はなんと電車のような対面式になっている。(写真左)

各座席前のポケットには「うちわ」が用意されている。暑いときはこれであおいでくださいということか。にしても会社名や宣伝も何もないシンプルなものである。(写真右)


14:10、39人乗りのプロペラ機は那覇空港を離陸





約1時間後、島影が見えてきた。初めてみる南大東島だ。
空から見る南大東島は、白みがかった黄緑色をしていた。サトウキビが主幹産業の島だということがわかる。

そして、おぉ港にはフェリー「だいとう」が接岸しているではないか。
今日の16時にとまりんに向け出航。残念ながら我々の滞在中、フェリーは戻ってこない。

フェリーで行ってクレーンで吊られたいと思うもそれは叶わず、せめて吊られるところだけでも見てみたいと思ったものの、それも叶わなかった。今、島に着いたばかりだが、次に来るときはフェリーで来よう、そう思った。



15:30頃、南大東空港到着


  空港ビルまで歩いていくというのは離島空港の醍醐味である。


  手荷物受取所はベルトコンベアーにはなってなさそう。



さて、空港からは2泊する民宿金城さんの車で集落へ。
我々の目下の懸案はこのそこそこアップダウンのありそうな島をどうやって回るかということ。

「この島は盆地になってて、集落がいちばん低いんです。で、海岸に行くにしたがって標高が高くなる。外周道路までの登りがきついけど、上がってしまえばそうアップダウンはないですかね。」
と民宿のおばさんは言う。

「自転車で大丈夫ですかね。」

「人それぞれですね。20代でもダメという人もいれば、70代のおじいちゃんでも大丈夫という人もいますね」

「そうですか・・・」

迷った。
迷ったんだか、歩くスピードの旅なんだしここで文明の利器を使うのも負けた気にもなる。そう、負けちゃいけんだろう。なにしろ私は毎日通勤で自転車を使っており人並みの脚力はあるという自信はある。こないだは山にも登った、よし自転車だ!
と宿の自転車(ママチャリ)を3日間借りることにした。
    





そんなわけで借りた「金城1号」「金城2号」(←けっしてベイの金城のホームランのことではない)  


Posted by tana at 22:41Comments(0)10.11南大東島へ

2010年11月04日

南大東島へ③カエルの道を自転車で走る 

11月3日16:00

そこそこアップダウンのありそうな島だが、敢えて宿の自転車「金城1号」「金城2号」を借りた我々。

夕方は夕日を見に行こうと思っていたのだが、まだ時間が早い。
さてどこへ行こう。
とりあえず島の真ん中の旧空港滑走路の上にある「島まるごとミュージアム」に行ってみよう。ここへいけば島の全容がわかるのではないか。


自転車を走らせる。
道路には踏みつぶされたカエルの死骸がいっぱい。

この島は真ん中に池があるので小動物や虫は多いし、更には天敵のハブがいないため、カエルにとっては天国なのだろう。まぁ天国とは言ってもこんなに車にはねられているんじゃしょうがないが・・・。

今、ムスメと遊ぶときに「♪カエルすっぴょこた♪」という歌をよく歌うのだが、そんなカエルを見ながら、自転車を漕ぐ勢いもあって、そのメロディが頭から離れなくなった。
カエルの死骸を踏まないように気をつけていると、たまに生きたカエルがぴょんぴょん跳ねていることもある。
おっとあぶない・・・、車に気をつけるんだよ。



「島まるごとミュージアム」

入館料は200円だが、ドアを開けて入るも、誰もいない・・・
まぁ島ではよくあることだが「ここに200円を入れて」と缶が置いてある。
私も長男も小銭を持っていなかった。二人合わせて小銭で100円もない。
両替するにも人がいないし、たった200円のことで「やった!ただで入ろう」なんても考えられないので、結局そそくさと出ていった。



次は集落に戻る。大東銀座と呼ばれる飲み屋街を抜け「大東神社」へ

 


110年前、開拓を始めた年に建立された神社。こういうところも沖縄っぽくないところである。


周囲に池があり蚊が多い。相撲の土俵などを見ていたがそんな時も尋常じゃない蚊の大群に襲われる。
後で島の人にそのことを言うと「台風の後で湿ってたから(蚊が大量発生したん)だろうね」という返事だったが、その時は、やっぱり我々がよそ者だからか?、それとも我々が怪しい者に見えたのか?(一部そう思われても仕方ないという面もあるが・・・)と思ってしまうのであった。
結局ここもそそくさと逃げ帰った。



とはいえいい時間になった。「西港」へ夕日を見に行く

島の外周道路への坂道をあえぎあえぎ上り西港へ。
着いたらちょうど夕日時だ。




そしてやっぱりここにも・・・

   
すべり台、ブランコ、鉄棒がある。
マグロ公園というらしい。




   


パルテノン神殿のような、廃墟のようなものがあり、いい雰囲気の写真が撮れた。
もしかしてそのために作った廃墟?なんてことも思ったがもちろんそんなことはなく、旧ボイラー室とのことだった。





18:00前
沖縄だから日暮れの時間は遅いのかと思ったら、ここ大東諸島は山口県と同じくらいの経度らしく普段とあまり変わらない時間の日暮れである。

もうすぐ日が暮れそうだ、早いとこ宿に帰ろう。  


Posted by tana at 22:36Comments(0)10.11南大東島へ