慰霊の日の沖縄へ③久高島
6月22日(日)11:50頃
20分ほどで島に着いた。
港はまるでベンチのある待合所だけがあり殺風景でどこかの工事現場のようである。
上の道路に出ると港の建物があった。
当面の懸案の食堂は2つあった。大きい食堂と小さい食堂の2つが道を挟んで建ってあった。
大きい食堂は扉が開いていて若干中が見える。小さい食堂は扉は閉められており中は見えない。入りやすいのは大きい食堂であろう。私も自分自身で予想はしていたが、予想通り小さい食堂の方に入ってしまった。悲しい性であろう。
メニューを見ると、お勧めメニューとして一番上に「海ぶどう丼(1,000円)」というのもあったがこれを頼むとなんか観光客みたいだ。何のために小さい食堂にしたんだ?という思いから「そば(500円)」を食べた。
ラジオでは「沖縄戦がいつから始まっていつ終わったのか」という話をしていた。
4月1日と間違える人が多いが、最初の上陸は3月24日の慶良間諸島が始めである。そして終わりも慰霊の日の6月23日と思いがちだが、それも「日本軍の組織戦」が終わったにすぎず、住民にとっても終戦はまだ先だった。というような話。
明日は63年目の慰霊の日だ。
テレビのニュースを見ても沖縄ローカルニュースでは慰霊の日を前にした地域での取り組みとか学校で語り部を呼んで当時の話を聞くといった学習とか、そういったニュースで賑わっていた。
慰霊の日に向けて、一日だけの一部だけの一過性のものにしないため、地域や学校、マスコミ上げて、沖縄戦を風化させまいという思いをひしひしと感じた。
食後はレンタサイクルで島を一回り。
島の北のほうシュガーロードから見えた海。きれいだった。
これまた島の北のほうにあるクボー御嶽
説明の看板がある。「昔、神々が天下りされた七御嶽のひとつである。(天下りといっても今の天下りとは違うだろう。だいたい今天下りしてるのはどう考えても神々ではない。)今でもこの地内の円形の広場は、イザイホー、フバワク等の祭事が行われ、久高住民にとって聖域の場である。また、男子禁制の場でもある。(よって写真より先には入ってません。)」
第一尚氏王統七代の尚徳王が鬼界島征伐後凱旋報告の為来島された時、当時の美人クニチャサ祝女に惚れ、長い間同棲した。その場所が大里家である。しかし王が首里城を忘れているうちに城では革命が起こった。急いで帰途についたが、王朝は転覆して尚円王(金丸)が王位についた。その話を聞いた尚徳王は海に身を投げたと伝えられている。
・・・港でもらった地図にこのような「大里家のエピソード」が書かれてあった。なんとも面白かったのでこれはいかねばと探したが、結局のところ案内なども無くどれが大里家なのかはわからなかった。
真昼の炎天下である。自転車で走るとどっと汗が出るが、下りになるとその汗も風で飛ばされていくような感覚になり気持ちいい。
ゆっくり走っても1時間もあれば一回りできる島である。14時過ぎには港に戻ってきた。自転車を返し、船の出発時間は15時。しばらく港の待合所でぜんざいを食べまったりとした時間を過ごした。
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