京都へ~2年ぶりの一人旅、京都但馬へvol.1~

tana

2008年05月09日 20:08

2008年5月3日、この日から世間は4連休である。
ネコも杓子も旅に出る風薫る5月の連休であるが、私も例外ではなく京都へ向かった。

11時前に京都到着。腹減った、飯だ、駅の周りでなにか食べよう、なにかあるだろう。と思い改札を抜け・・・

なんだこの人の数は!!!

これは飯を食べるにもなにを食べるにも行列に並ばないとありつけそうにない。こんなところは早く抜けてバスに乗ろう、とバスターミナルへ行くも、どの方面のバスに乗ろうにも大行列が待っていた。まったく連休となったら日本人は・・・と思うもよく見ると外国人観光客も多い。そして日本人のような雰囲気でも口から発せられるのはハングル語だったりするから、浅はかな日本人の観光客がガイドブックに連れられこんなに集まってうっとおしい、・・・というのとも若干違うのだろう。

そんなにいうお前はどうなのか?浅はかな日本人観光客の一人ではないのか?という人もいるだろうが、私が京都に来たのは意味がある。
「立命館国際平和ミュージアム」に行ってみたかったのだ。
道中の人の多さに辟易しながらも、目的の博物館に着くと「さっきまであれだけいた人たちはいったいどこに行ったのだ??」というくらいそこは閑散としていたもんだから、前述の浅はかな日本人観光客と私とでは一味も二味も違うことが分かっていただけるだろう。

そういえばタイやネパールに行っても飛行機や空港までは日本人がいっぱいいるのに、いざ街歩きなどしてるとそこには全然日本人の姿がなく「あの時、空港であれだけいた日本人はどこにいるんだ」という気持ちによくなるのとよく似ている。

話を戻す。
なぜ、京都へ「立命館国際平和ミュージアム」に行ってみたい、と思ったのか。
それはもう6年も前になるのだが、我が有能なる側近のFに「一緒に映画でも行きませんか?」と誘われ横川シネマへ行ったことがあった。映画のタイトルは「軍隊を捨てた国」。コスタリカの国の話である。当時、前知識も無く見終わったので、ネットでいろいろ復習してたら、映画を製作した監督の会社のサイトの興味深いコラムに辿り着いた。
以下に勝手に引用する。

『・・・・平和博物館を建設中である。日本にも、平和博物館なるものがいくつかあるが、私から言わせればそのほとんどが「平和博物館」というカテゴリーにはいらない。もしかしたら、日本には平和博物館はひとつもないかもしれない。例えば京都の立命館大学は、「立命館平和ミュージアム」を作り、その評判は日本隋一だ。ところが、平和学の始祖にして権威であるヨハン・ガルトゥングは、それを知っていながら、こう言うのだ。「京都には立派な『反戦』博物館がありますね」と。そう、日本にあるのは全て、反戦博物館なのだ。平和博物館とは、まさに平和を生み出すためのものであり、戦争をしないためのものとは違うのである。無論、反戦は平和のうちに含まれる。だが、一部でしかありえない。ドニャ・カレンが現在建設中の平和博物館は、「平和とは何か」を考えるためのさまざまな工夫がしてある。・・・・』

「戦争の対義語が平和」というくらいの認識しかなかった当時、目から鱗が落ちるような感覚に陥った。
平和とは何だ?
よくわからないけど、とにかく行って見てみよう。そこがどんなものなのか。

・・・と思い苦節6年。アジアや沖縄ばかり行ってすっかり忘れていたこの場所に行ってみようと思い至ったのだ。

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