総攻撃はどうなったのか?
帰国しました。
(これまでの記事は今後文章・写真を肉付けしていく予定です。)
さて、61年前の、4日午前4時50分の総攻撃がどうなったかといえば・・・
結局のところ、米軍陣地を打破できないまま、5日夕方、司令官が攻撃注視を命じ、総攻撃は失敗した。
この戦闘で日本兵約5,000人が戦力は極度に低下。今後、米軍が司令部を置く首里を攻撃するのは時間の問題で、沖縄戦の敗北は決定的となった。
この戦闘で、浦添西原に留まっていた女性やお年寄り、子供多数が戦火に書き込まれて死傷している。日本軍による食料強奪が避難壕からの追い出しに遭う住民もおり、地上戦に放り出され犠牲となった住民が多数出ている。
その61年後、同様に4日午前5時に起床し総攻撃を行った私のコザでの5日夕方はどうだったかといえば・・・
午後3時に宿に帰るとテレビで市民球場(鯉vs竜)をやっていた。さすがは鯉キャンプ地のコザである。私は昼寝をすることもなくテレビに食い入るように見入ったところ、見事、逆転勝利となり4位をキープした。
そして、私はあることに気づいた。
・・・最近、私が見ると鯉の勝率がいいのだ。
この結果を元に考察すると・・・、
10分寝坊はしたものの、この総攻撃、私は勝ったといえよう。
めでたしめでたしである。
そして6月には、すでに敗残兵になって2年が経過した長男と那覇で合流し、その後壮絶な沖縄戦の最期を飾る予定である。
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