「ラオスは戦場だった」
先週、神保町アジア文庫にて購入したラオス関係の書籍3冊のうちの1冊。
「ラオスは戦場だった」
以下、本の前書きの抜粋を含めラオスでの戦争について紹介します。
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ベトナム戦争時、アメリカはラオス全土に対しクラスター爆弾による空爆を行った。
地雷というと、ベトナムやカンボジアがクローズアップされるが、ここラオスでも全土に渡り空爆を受けている。
何故か?
それは、「ホーチミンルート」という北ベトナムが南ベトナムの解放勢力支援物資を運んだ道路がラオス国内を走っていたからである。
そしてアメリカは、北ベトナム軍がラオスを走るホーチミン・ルートを利用して南下するのを防ぐため300万トンという量の爆弾をラオス全土に投下すると共に、山岳民族モンを訓練してモン特殊攻撃部隊(HSGU)を組織し、山岳戦でモンにラオやベトナムの共産側兵士を殺させるという戦略をとった。
ラオスでの戦闘は激化し、おびただしい数の死者が出た。
前線にジャーナリストが近づくのは不可能で、その全貌が明らかにされることはなく、ラオスの戦いは「秘密戦争」そのものだった。
1975年、ベトナムはこの戦争に勝利。そしてビエンチャンも陥落。
しかし、ラオスでの戦争はまだ終わらなかった。
米軍が去り、おきざりにされたモンの兵士とその家族を待っていたのは共産側からの報復だった。
本当の「モンの悲劇」はそこから始まったのである。
ラオスから米国に逃れて再定住したモンは米国生まれのモンを含めると23万人をこえた。
その後もアメリカは「ラオスでは戦争などない」と言いつづけていた。
しかし、ラオス北部ではその時の爆弾が不発弾として大地に眠っている。
不発弾となって、いつ爆発するかわからない。今でも。
ラオスではこの野球ボールくらいの爆弾を「ボンビーズ」と呼び、学校でも見つけたらけっして触らず専門家を呼ぶように教育を受けている。
まだまだ未開の地の多いこのラオス。
新しく土地を耕す場合など、今でも何名ものラオス人が不発弾で死亡・負傷している。
100年経ってもここラオスでは除去作業は終わらないという。
そしてここに住んでいる住民は、ボンビーズとともに生きていかなければならない。
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そして30年後、
現在でもアメリカはイラクやアフガン空爆などでクラスター爆弾を使用している。
2004年6月、イラクでモン兵士の最初の死者が出た。
米軍に加われば市民権を得やすくなるという理由で、多くのモンの青年が異国の戦場に赴いている。
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