2008年06月23日
私は潜りませんが・・・
沖縄で潜ろう!青い空、青い海、白い砂浜、真っ赤な花・・・そんなオキナワにまったく無縁なツアー
それが、「沖縄で潜ろう!」
潜るといっても海ではない。沖縄といえば洞窟だ!
沖縄の母なる大地の下には無数の洞窟(ガマ)、そして戦争遺跡としての地下壕。真っ暗な闇のなか、懐中電灯がたより。コウモリを友とし、美しい鍾乳石に目を奪われる。時には遺骨、遺品に手を合わせ、不発弾に恐怖を抱きつつ、無事地上に辿り着いたときの、空気の美味さと、太陽の光のありがたさ。生きていてよかったと思わず体感!

今年、2008年は、沖縄慰霊の日、
6月23日を中心に”不評にもめげず”決行予定
左)経験豊富なガイドがハブよけの棒をもってご案内
中)常連のガママニア(今回同行予定)です
右)無事生還した後のぜんさいの美味しさを味わおう!
興味のある方は私か長男まで
<注意事項>
懐中電灯、ヘルメット、軍手、長靴は各自で準備お願いします。
なお私は沖縄本島までは同行しますが、NAHAマラソンコース下見の為ガマには潜りません。(下見が無くてもガマには潜りません。)ケガ、転落、落盤、生き埋めなどすべてについて責任を負いません。
・・・馬鹿なんじゃないのか?
タグ :有限会社長男
2008年06月23日
21回目の沖縄へ
先日、次男は沖縄へ行く際、作務衣と雪駄と風呂敷包みで飛行機に乗り込んだという。周囲に数奇な目で見られたことだろう。
そんな話を聞き、本日、長男は沖縄へ日本兵の格好で乗り込んだと聞いた。周囲の人に目をあわせてもらえなかったことだろう。
沖縄へ着き敗残兵となって宿にチェックインするも、宿泊を断られないかたいへん心配だ。
私がいれば「この人にはちゃんとした民間人がついている」と周りの住民も安心するだろう。
よって私も明日の朝、沖縄へ旅立たなければならない。
先ほど、この期に及んで長男から「長靴をもってこい」というメールが届いた。
残念ながらもう荷造りを済ませた後だ。残念ながら持っていけそうに無い。「残念ながらもうこれ以上荷物は入りません。大変残念です。」と返信メールを送った。満面の笑みで。
梅雨前線の動向とか身重の妻の体調とか、この4日間は公私共に気になる点はたくさんあるのだが、前述の状況により行かないわけにはいかないだろう。
大変やむを得ない状況である。
そんな話を聞き、本日、長男は沖縄へ日本兵の格好で乗り込んだと聞いた。周囲の人に目をあわせてもらえなかったことだろう。
沖縄へ着き敗残兵となって宿にチェックインするも、宿泊を断られないかたいへん心配だ。
私がいれば「この人にはちゃんとした民間人がついている」と周りの住民も安心するだろう。
よって私も明日の朝、沖縄へ旅立たなければならない。
先ほど、この期に及んで長男から「長靴をもってこい」というメールが届いた。
残念ながらもう荷造りを済ませた後だ。残念ながら持っていけそうに無い。「残念ながらもうこれ以上荷物は入りません。大変残念です。」と返信メールを送った。満面の笑みで。
梅雨前線の動向とか身重の妻の体調とか、この4日間は公私共に気になる点はたくさんあるのだが、前述の状況により行かないわけにはいかないだろう。
大変やむを得ない状況である。
タグ :メガネ三兄弟
2008年06月23日
慰霊の日の沖縄へ①初日
6月21日 10:00すぎ那覇空港着。
ゆいレールで市内へ
ゆいレールを見て思うのは「那覇に帰ってきたなぁ~」ということではない。最近は「超感動大作DVD『ゆいレール』」を思い出してしまってしょうがないのだ。
しかも今回は一番前の座席の後ろに立っていたものだからあのDVDの様子が刻明に思い浮かんでしまう。
「ドアしまりまーす!!」(←マニアにしかわからないネタであった)
県庁前から新金一までの道のりを歩く。
最初の感想「暑い!!」。
沖縄は梅雨明けしておりすでに夏の日差しが降り注いでいる。10分ほど歩くだけなのに汗だくになりそうだ。
今回の旅は長男が5年前から実行している「沖縄戦当時住民がいたガマに潜り当時の状況を追体験しよう」というツアー。通称ガマツアーと呼んでいる。(写真のようなイメージです)
3年前から「当時の梅雨末期の状況に合わせよう」と時期も6月に設定した。5年前こそ参加者5名と盛況を誇ったが、以後参加は3名→2名と減り続け昨年はついに長男一人になってしまった。今年は「慰霊の日の沖縄の様子が見たい、だがガマの行程の日は別行動」という私の条件でなんとか2名を確保した次第である。
そんなわけで長男は一日でも長くガマライフを満喫するために前日から沖縄入りしていた。そして今日私が11時前に新金一に到着するためフロントに部屋のカギを預けておいたのだ。
そんなわけで既に話が伝わっていたのか11時前に着くと「ta●●さんですね」とvip待遇であった。
長男に無事到着した旨のメールを打ち昼を食べに行く。
大栄食堂のイナムドゥチ定食
食堂でかかっていたラジオで今日FC琉球の試合(サッカー)があるらしい、というようなことを言っている。一瞬行ってみようかと気が動いたが、どこでやるかもわからないし、第一暑かろう。そんなわけで却下。
そういえば長男からはメールの返事は返ってこない。まぁガマの中は電波が届かないんだろうね。
食後、今日の目的地県立博物館へ行く。新しくなってからまだ行ってないのだ。
市場通りから牧志の駅に行くまで(これも10分ほどだが)これだけでも耐え切れないほどの暑さだ。駅のホームにいると日陰で風通しもよく気持ちいい。ずっとここにいてもいいとさえ思ったくらいだ。
そういえば当初は那覇マラソンの下見をしようと、那覇マラソンコースを平和公園くらいまで歩いてみようかなどと思っていたのだった。考え自体が浅はかだった。
昨日長男からのメールで「外は暑いけどガマの中は涼しいよ」なんて言ってたが、私はガマでなく駅のホームで十分である。

メールと言えばさっきのメールの返事が長男からまだ返ってこない。
こりゃ生き埋めか?
まぁそれも仕方ない。何があってもすべて自己責任、これがガマツアーの鉄則である。生き埋めになればなったで仕方ないのだ、とやってきたモノレールに乗り「おもろまち」に向かった。
県立博物館へ。
1609年に当時の琉球王国が薩摩に攻め込まれた。琉球民族にしてみればそれ以降は外国(日本、アメリカ)に占領されたという形だ。来年で400年になるのか。そろそろチベットの中国に対する動き同様に琉球の日本(アメリカ)からの独立という動きも本格的に勃発しないかなと思った。
特に最近の日本化されてきた沖縄(特に那覇周辺)を見るにつけ思う。
14時過ぎ県立博物館を出る。
長男からメールが返ってくる。
「3時間ほどガマを歩いて今具志頭ドライブインでAランチ」
3時間もガマの中にいたのか。きちがいだすっかりガマライフを満喫している。
夕方、長男と部屋で合流し晩を食べに行く。
辻の「ジョージ」へ、これで多分3回目だ。
生2杯とタコスとインチラダス。メキシカンディナーである。
もう少し食べれるかなと思ったが、長男は「もういらん」という表情。
朝から晩までガマに潜って疲れているのか、やはり長男も人間なのだと感じた。

タコス(絶品!) インチラダス
さて、インチラダスというものがどういうものかは私にはよく分からないのだが、バイトのお姉さんもよくわからなかったようで、裏で店長からどんなものかレクチャーを受けていた。3年前のバイト面接騒動(まぁ騒動というほどでもないが)を思い出した。
旧ステーツサイズが「無料案内所」になっていた・・・。なんと・・・
ゆいレールを見て思うのは「那覇に帰ってきたなぁ~」ということではない。最近は「超感動大作DVD『ゆいレール』」を思い出してしまってしょうがないのだ。
しかも今回は一番前の座席の後ろに立っていたものだからあのDVDの様子が刻明に思い浮かんでしまう。
「ドアしまりまーす!!」(←マニアにしかわからないネタであった)
県庁前から新金一までの道のりを歩く。
最初の感想「暑い!!」。
沖縄は梅雨明けしておりすでに夏の日差しが降り注いでいる。10分ほど歩くだけなのに汗だくになりそうだ。
3年前から「当時の梅雨末期の状況に合わせよう」と時期も6月に設定した。5年前こそ参加者5名と盛況を誇ったが、以後参加は3名→2名と減り続け昨年はついに長男一人になってしまった。今年は「慰霊の日の沖縄の様子が見たい、だがガマの行程の日は別行動」という私の条件でなんとか2名を確保した次第である。
そんなわけで長男は一日でも長くガマライフを満喫するために前日から沖縄入りしていた。そして今日私が11時前に新金一に到着するためフロントに部屋のカギを預けておいたのだ。
そんなわけで既に話が伝わっていたのか11時前に着くと「ta●●さんですね」とvip待遇であった。
長男に無事到着した旨のメールを打ち昼を食べに行く。
食堂でかかっていたラジオで今日FC琉球の試合(サッカー)があるらしい、というようなことを言っている。一瞬行ってみようかと気が動いたが、どこでやるかもわからないし、第一暑かろう。そんなわけで却下。
そういえば長男からはメールの返事は返ってこない。まぁガマの中は電波が届かないんだろうね。
食後、今日の目的地県立博物館へ行く。新しくなってからまだ行ってないのだ。
市場通りから牧志の駅に行くまで(これも10分ほどだが)これだけでも耐え切れないほどの暑さだ。駅のホームにいると日陰で風通しもよく気持ちいい。ずっとここにいてもいいとさえ思ったくらいだ。
そういえば当初は那覇マラソンの下見をしようと、那覇マラソンコースを平和公園くらいまで歩いてみようかなどと思っていたのだった。考え自体が浅はかだった。
昨日長男からのメールで「外は暑いけどガマの中は涼しいよ」なんて言ってたが、私はガマでなく駅のホームで十分である。
メールと言えばさっきのメールの返事が長男からまだ返ってこない。
こりゃ生き埋めか?
まぁそれも仕方ない。何があってもすべて自己責任、これがガマツアーの鉄則である。生き埋めになればなったで仕方ないのだ、とやってきたモノレールに乗り「おもろまち」に向かった。
県立博物館へ。
1609年に当時の琉球王国が薩摩に攻め込まれた。琉球民族にしてみればそれ以降は外国(日本、アメリカ)に占領されたという形だ。来年で400年になるのか。そろそろチベットの中国に対する動き同様に琉球の日本(アメリカ)からの独立という動きも本格的に勃発しないかなと思った。
特に最近の日本化されてきた沖縄(特に那覇周辺)を見るにつけ思う。
14時過ぎ県立博物館を出る。
長男からメールが返ってくる。
「3時間ほどガマを歩いて今具志頭ドライブインでAランチ」
3時間もガマの中にいたのか。
辻の「ジョージ」へ、これで多分3回目だ。
生2杯とタコスとインチラダス。メキシカンディナーである。
もう少し食べれるかなと思ったが、長男は「もういらん」という表情。
朝から晩までガマに潜って疲れているのか、やはり長男も人間なのだと感じた。
タコス(絶品!) インチラダス
さて、インチラダスというものがどういうものかは私にはよく分からないのだが、バイトのお姉さんもよくわからなかったようで、裏で店長からどんなものかレクチャーを受けていた。3年前のバイト面接騒動(まぁ騒動というほどでもないが)を思い出した。
2008年06月23日
慰霊の日の沖縄へ②斎場御嶽・安座真港
6月22日 今日も
朝、起き抜けに長男は言った。
「今日行く最初の壕は午後になると軍関係の遺族が慰霊祭をするらしく、関係者が準備に来ない朝早くに潜っておかないといけないんだ。」
そんなわけで長男は朝8時に部屋を出ていった。人ごとながらなんか大変そうである。
私はといえば長男が出て行ったあと、優雅にシャワーを浴び、そして優雅にレンタカー屋のある久茂地まで歩いていった。
しかし、9時前なのに今日も暑い!
二日目はレンタカーで知念半島近辺を回る行程にしている。斎場御嶽→久高島→時間があれば奥武島を回ろうというコースである。
ふと気づいた。
沖縄は21回目になるのだがなぜかこのコースは一度も行ったことが無い、と。
たしかに同じ知念半島でも玉城村(おきなわワールドのある)南の南部には良く行くし、東海岸沿いをコザ方面に北上するにしても行くのは西原町より北なのである。
この辺は意外と盲点だということに気づいた。
また、このコースは琉球の神事にも触れることの出来るコースでもある。
写真は斎場御嶽から望む久高島→
斎場御嶽は、御嶽(南西諸島に広く分布している聖地)の中でも琉球王国で最高の御嶽だという。神の島久高島が拝められ、島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。
久高島とは、琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという琉球神話で聖地の島である。ちなみにシロミキヨとは百発百中の神のことである。
斎場御嶽
観光地なので訪れる観光客は多い。
有名なのは、写真にあるような久高島が拝めるという拝所である。三庫理(サングーイ)と呼ぶようである。
ここではスピリチュアルな団体と一緒になった。
久高島を拝む場所でとなりの女性はいきなり目を閉じ島から来る気を浴びているのか昇天するような表情をしている。別の人は座り込んでヨガを始めだし、その人の周りをみんなで取り囲みみんなで頭をなでたりなど・・・
世の中にはいろんな人がいるものと実感。それを考えると3日間どっぷりと計十数個のガマに潜る行為など至って普通なのかもしれない。
・・・そんなことはないだろう。(我に返った。)
次の目的地、久高島には安座真港からフェリー・高速艇で20分ほど。
1日6本、フェリーと高速艇が交互に出る。
往復の船のチケットを買う(高速艇往復1,410円)と「地図はいりますか」と島の地図もいっしょにくれた。
手書きで飾り気のない昔ながらの地図だった。実のところ島の地図も持ってなく、久高島といえば御嶽がいっぱいある神の島というくらいの知識しか私にはなく、まぁ上陸したら神の恩恵を体中に浴び、以降鯉は連戦連勝になるのだろうと思っていたくらいだからこの地図が非常に頼りになった。
港にかわいい売店がある。
島で昼を食べようとは思ってるが、向こうに食堂などあるのだろうか?パンでも買っていったほうがいいのだろうか?などと思ってしまったが、よく考えるとちゃんと人口も200人以上住んでいる島である。何も無いことは無いだろう。万が一食堂は無くても売店くらいはあってパンくらいは買えるだろう。
11:30久高島行きは安座真港を出発!

朝、起き抜けに長男は言った。
「今日行く最初の壕は午後になると軍関係の遺族が慰霊祭をするらしく、関係者が準備に来ない朝早くに潜っておかないといけないんだ。」
そんなわけで長男は朝8時に部屋を出ていった。人ごとながらなんか大変そうである。
私はといえば長男が出て行ったあと、優雅にシャワーを浴び、そして優雅にレンタカー屋のある久茂地まで歩いていった。
しかし、9時前なのに今日も暑い!
二日目はレンタカーで知念半島近辺を回る行程にしている。斎場御嶽→久高島→時間があれば奥武島を回ろうというコースである。
ふと気づいた。
沖縄は21回目になるのだがなぜかこのコースは一度も行ったことが無い、と。
たしかに同じ知念半島でも玉城村(おきなわワールドのある)南の南部には良く行くし、東海岸沿いをコザ方面に北上するにしても行くのは西原町より北なのである。
この辺は意外と盲点だということに気づいた。
写真は斎場御嶽から望む久高島→
斎場御嶽は、御嶽(南西諸島に広く分布している聖地)の中でも琉球王国で最高の御嶽だという。神の島久高島が拝められ、島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。
久高島とは、琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという琉球神話で聖地の島である。ちなみにシロミキヨとは百発百中の神のことである。
観光地なので訪れる観光客は多い。
有名なのは、写真にあるような久高島が拝めるという拝所である。三庫理(サングーイ)と呼ぶようである。
ここではスピリチュアルな団体と一緒になった。
久高島を拝む場所でとなりの女性はいきなり目を閉じ島から来る気を浴びているのか昇天するような表情をしている。別の人は座り込んでヨガを始めだし、その人の周りをみんなで取り囲みみんなで頭をなでたりなど・・・
世の中にはいろんな人がいるものと実感。それを考えると3日間どっぷりと計十数個のガマに潜る行為など至って普通なのかもしれない。
・・・そんなことはないだろう。(我に返った。)
1日6本、フェリーと高速艇が交互に出る。
往復の船のチケットを買う(高速艇往復1,410円)と「地図はいりますか」と島の地図もいっしょにくれた。
手書きで飾り気のない昔ながらの地図だった。実のところ島の地図も持ってなく、久高島といえば御嶽がいっぱいある神の島というくらいの知識しか私にはなく、まぁ上陸したら神の恩恵を体中に浴び、以降鯉は連戦連勝になるのだろうと思っていたくらいだからこの地図が非常に頼りになった。
島で昼を食べようとは思ってるが、向こうに食堂などあるのだろうか?パンでも買っていったほうがいいのだろうか?などと思ってしまったが、よく考えるとちゃんと人口も200人以上住んでいる島である。何も無いことは無いだろう。万が一食堂は無くても売店くらいはあってパンくらいは買えるだろう。
2008年06月23日
慰霊の日の沖縄へ③久高島
6月22日(日)11:50頃
20分ほどで島に着いた。
港はまるでベンチのある待合所だけがあり殺風景でどこかの工事現場のようである。
上の道路に出ると港の建物があった。

当面の懸案の食堂は2つあった。大きい食堂と小さい食堂の2つが道を挟んで建ってあった。
大きい食堂は扉が開いていて若干中が見える。小さい食堂は扉は閉められており中は見えない。入りやすいのは大きい食堂であろう。私も自分自身で予想はしていたが、予想通り小さい食堂の方に入ってしまった。悲しい性であろう。
メニューを見ると、お勧めメニューとして一番上に「海ぶどう丼(1,000円)」というのもあったがこれを頼むとなんか観光客みたいだ。何のために小さい食堂にしたんだ?という思いから「そば(500円)」を食べた。

ラジオでは「沖縄戦がいつから始まっていつ終わったのか」という話をしていた。
4月1日と間違える人が多いが、最初の上陸は3月24日の慶良間諸島が始めである。そして終わりも慰霊の日の6月23日と思いがちだが、それも「日本軍の組織戦」が終わったにすぎず、住民にとっても終戦はまだ先だった。というような話。
明日は63年目の慰霊の日だ。
テレビのニュースを見ても沖縄ローカルニュースでは慰霊の日を前にした地域での取り組みとか学校で語り部を呼んで当時の話を聞くといった学習とか、そういったニュースで賑わっていた。
慰霊の日に向けて、一日だけの一部だけの一過性のものにしないため、地域や学校、マスコミ上げて、沖縄戦を風化させまいという思いをひしひしと感じた。
食後はレンタサイクルで島を一回り。
島の北のほうシュガーロードから見えた海。きれいだった。

これまた島の北のほうにあるクボー御嶽
説明の看板がある。「昔、神々が天下りされた七御嶽のひとつである。(天下りといっても今の天下りとは違うだろう。だいたい今天下りしてるのはどう考えても神々ではない。)今でもこの地内の円形の広場は、イザイホー、フバワク等の祭事が行われ、久高住民にとって聖域の場である。また、男子禁制の場でもある。(よって写真より先には入ってません。)」
第一尚氏王統七代の尚徳王が鬼界島征伐後凱旋報告の為来島された時、当時の美人クニチャサ祝女に惚れ、長い間同棲した。その場所が大里家である。しかし王が首里城を忘れているうちに城では革命が起こった。急いで帰途についたが、王朝は転覆して尚円王(金丸)が王位についた。その話を聞いた尚徳王は海に身を投げたと伝えられている。
・・・港でもらった地図にこのような「大里家のエピソード」が書かれてあった。なんとも面白かったのでこれはいかねばと探したが、結局のところ案内なども無くどれが大里家なのかはわからなかった。
真昼の炎天下である。自転車で走るとどっと汗が出るが、下りになるとその汗も風で飛ばされていくような感覚になり気持ちいい。
ゆっくり走っても1時間もあれば一回りできる島である。14時過ぎには港に戻ってきた。自転車を返し、船の出発時間は15時。しばらく港の待合所でぜんざいを食べまったりとした時間を過ごした。
20分ほどで島に着いた。
港はまるでベンチのある待合所だけがあり殺風景でどこかの工事現場のようである。
上の道路に出ると港の建物があった。
当面の懸案の食堂は2つあった。大きい食堂と小さい食堂の2つが道を挟んで建ってあった。
大きい食堂は扉が開いていて若干中が見える。小さい食堂は扉は閉められており中は見えない。入りやすいのは大きい食堂であろう。私も自分自身で予想はしていたが、予想通り小さい食堂の方に入ってしまった。悲しい性であろう。
メニューを見ると、お勧めメニューとして一番上に「海ぶどう丼(1,000円)」というのもあったがこれを頼むとなんか観光客みたいだ。何のために小さい食堂にしたんだ?という思いから「そば(500円)」を食べた。
ラジオでは「沖縄戦がいつから始まっていつ終わったのか」という話をしていた。
4月1日と間違える人が多いが、最初の上陸は3月24日の慶良間諸島が始めである。そして終わりも慰霊の日の6月23日と思いがちだが、それも「日本軍の組織戦」が終わったにすぎず、住民にとっても終戦はまだ先だった。というような話。
明日は63年目の慰霊の日だ。
テレビのニュースを見ても沖縄ローカルニュースでは慰霊の日を前にした地域での取り組みとか学校で語り部を呼んで当時の話を聞くといった学習とか、そういったニュースで賑わっていた。
慰霊の日に向けて、一日だけの一部だけの一過性のものにしないため、地域や学校、マスコミ上げて、沖縄戦を風化させまいという思いをひしひしと感じた。
食後はレンタサイクルで島を一回り。
島の北のほうシュガーロードから見えた海。きれいだった。
説明の看板がある。「昔、神々が天下りされた七御嶽のひとつである。(天下りといっても今の天下りとは違うだろう。だいたい今天下りしてるのはどう考えても神々ではない。)今でもこの地内の円形の広場は、イザイホー、フバワク等の祭事が行われ、久高住民にとって聖域の場である。また、男子禁制の場でもある。(よって写真より先には入ってません。)」
第一尚氏王統七代の尚徳王が鬼界島征伐後凱旋報告の為来島された時、当時の美人クニチャサ祝女に惚れ、長い間同棲した。その場所が大里家である。しかし王が首里城を忘れているうちに城では革命が起こった。急いで帰途についたが、王朝は転覆して尚円王(金丸)が王位についた。その話を聞いた尚徳王は海に身を投げたと伝えられている。
・・・港でもらった地図にこのような「大里家のエピソード」が書かれてあった。なんとも面白かったのでこれはいかねばと探したが、結局のところ案内なども無くどれが大里家なのかはわからなかった。
真昼の炎天下である。自転車で走るとどっと汗が出るが、下りになるとその汗も風で飛ばされていくような感覚になり気持ちいい。
ゆっくり走っても1時間もあれば一回りできる島である。14時過ぎには港に戻ってきた。自転車を返し、船の出発時間は15時。しばらく港の待合所でぜんざいを食べまったりとした時間を過ごした。
2008年06月23日
慰霊の日の沖縄へ④奥武島&長男のガマ仲間と飲む
15:20頃、久高からの高速艇は本島に戻った。
安座真港に停めておいたレンタカーで南へ、次の目的地奥武島に向かっていた。
30分ほどで奥武島を渡る橋を越える。ここは橋で繋がっており、橋の下は浜辺になっていて梅雨が開け多分今年初めての水遊びを楽しんでいる人が多い。
ここへ来た目的はひとつ。中本鮮魚店である。ただ鮮魚店といいながらほとんどの客の目当ては「天ぷら」である。
着いて唖然とした。
むちゃくちゃ並んどるやないか。

店の前だけでなく前の道も路駐が多い。しかし「わ」ナンバーばかりというわけではなく、けっこう地元の人も多いようだ。浜辺で遊んだ地元の(近くから車で遊びに来た)ウチナンチュがおやつがわりに天ぷらを食べているのだろう。
1個60円。もずく、イカ、イモ、やさい等々あった。昨今の原材料高により10円値上げせざるを得なくなったことを張り紙してお断りしている。原材料高にしろ原油高にしろ、なぜこんなに高くなったのかというその根本を議論して欲しいものである。
1個60円。15分ほど待って購入。
60円といいながら十分すぎるボリュームである。
どれも揚げたてで特に「イカ」は絶品だった。
16:20頃。
その後平和祈念公園まで足を伸ばし慰霊の日前日の様子が見たくなった。
17:00には着いたが、ほぼ同時に長男からメールが。
「もうつきます。」
主語もなく漢字変換もされてないこの一言のメールから今日の行程の壮絶さが感じ取れる。
そう今晩は長男のガマ仲間と飲むことになったのだ。
このツアーのガイド役でありそしてこの長い付き合いですっかり長男の戦友のようになってしまったU原さんから「仲間を集めますのでぜひ広島での戦争の話をしてください」と頼まれたようだ。
ガマには潜らなかった私も一緒に首里で19時から飲む約束をしていたので、早く帰らねば・・・那覇市内に戻った。
レンタカーを返し、宿に戻り、簡単にシャワーを浴びて、タクシーで首里まで。19:00すぎに店に入った。
その後、おおまかなメンバーが集まったのを見計らって沖縄側から自己紹介。
みなさん個人タクシーや観光バスなどで平和ガイドをしている方のよう。予想通りガマ仲間と呼んでよさそうだ。そして長男、私と自己紹介が続く。
「この方(長男)に連れられ過去3回ガマツアーに来ましたが、今回は別行動です。」
と自己紹介するも、これに沖縄側から質問が、
「どうして別行動?」「なぜ入らないの?」
答弁
「いや・・・、回を重ねるごとにどんどん入るところが厳しくなって・・・」
こんな答弁じゃいかん、ととっさに思ったが、この状況はなんというか、私がまるで負け犬みたいではないか。
いつもとは違う。ホームの広島じゃ次男、炭水化物、N原さんなど私寄りの考えでほとんど支配されているというのに(「入ったらいいのに」と言うのは私の妻くらいである。)ここ沖縄では完全にアウェイだ。
こんなはずじゃない。
ここで誤解のないように言っておきたいが、私はガマには入るのはもう御免だと言っているのではなく(それもあるが)、例えば修学旅行生が班別行動で入るような、追体験として人にガイドするために入るレベルのところであればむしろウエルカムなのである。
それにしても大変おかしな状況だ。
その後話題は広がりハブの話題になった。「私はハブの抜け殻しか見てない」「私は本物を見た」「私は50cm手前で見ました」「いや私はカメを見ました」「カニを見た」「魚を見た」「あれはグッピーだった」など言いたい放題。ただ普通の飲み会とは違うのが先ほどの会話「全部ガマの中で見たもの」という話だということである。全く大変おかしな状況だ。自覚症状はあるのだろうか。
まぁガマを除いてはみなさん真摯に平和ガイドとして日々学習している方々であり、今回も沖縄ではなかなか聞くことの出来ない広島での戦争の話に真剣に耳を傾けていた。長男もA4 5枚くらいのレジュメまで作って30分程度話をした。(私としても話を聞き、被爆2世、3世とてもデリケートな問題であることを知った。)
それにしてもこのレジュメ「一体いつ作ったんだ」と思ったが、どうもこないだ滋賀でしたレジュメを持ってきていたようだ。
結局11時近くまで飲んだ。
やはりメンバー的にも非常にマニアックであることに変わりは無いが、これで沖縄と広島の交流が広がった。「有限会社長男」の定年後もきっと安泰であろう。
安座真港に停めておいたレンタカーで南へ、次の目的地奥武島に向かっていた。
30分ほどで奥武島を渡る橋を越える。ここは橋で繋がっており、橋の下は浜辺になっていて梅雨が開け多分今年初めての水遊びを楽しんでいる人が多い。
ここへ来た目的はひとつ。中本鮮魚店である。ただ鮮魚店といいながらほとんどの客の目当ては「天ぷら」である。
着いて唖然とした。
むちゃくちゃ並んどるやないか。
店の前だけでなく前の道も路駐が多い。しかし「わ」ナンバーばかりというわけではなく、けっこう地元の人も多いようだ。浜辺で遊んだ地元の(近くから車で遊びに来た)ウチナンチュがおやつがわりに天ぷらを食べているのだろう。
1個60円。もずく、イカ、イモ、やさい等々あった。昨今の原材料高により10円値上げせざるを得なくなったことを張り紙してお断りしている。原材料高にしろ原油高にしろ、なぜこんなに高くなったのかというその根本を議論して欲しいものである。
60円といいながら十分すぎるボリュームである。
どれも揚げたてで特に「イカ」は絶品だった。
16:20頃。
その後平和祈念公園まで足を伸ばし慰霊の日前日の様子が見たくなった。
17:00には着いたが、ほぼ同時に長男からメールが。
「もうつきます。」
主語もなく漢字変換もされてないこの一言のメールから今日の行程の壮絶さが感じ取れる。
そう今晩は長男のガマ仲間と飲むことになったのだ。
このツアーのガイド役でありそしてこの長い付き合いですっかり長男の戦友のようになってしまったU原さんから「仲間を集めますのでぜひ広島での戦争の話をしてください」と頼まれたようだ。
ガマには潜らなかった私も一緒に首里で19時から飲む約束をしていたので、早く帰らねば・・・那覇市内に戻った。
レンタカーを返し、宿に戻り、簡単にシャワーを浴びて、タクシーで首里まで。19:00すぎに店に入った。
その後、おおまかなメンバーが集まったのを見計らって沖縄側から自己紹介。
「この方(長男)に連れられ過去3回ガマツアーに来ましたが、今回は別行動です。」
と自己紹介するも、これに沖縄側から質問が、
「どうして別行動?」「なぜ入らないの?」
答弁
「いや・・・、回を重ねるごとにどんどん入るところが厳しくなって・・・」
こんな答弁じゃいかん、ととっさに思ったが、この状況はなんというか、私がまるで負け犬みたいではないか。
いつもとは違う。ホームの広島じゃ次男、炭水化物、N原さんなど私寄りの考えでほとんど支配されているというのに(「入ったらいいのに」と言うのは私の妻くらいである。)ここ沖縄では完全にアウェイだ。
こんなはずじゃない。
それにしても大変おかしな状況だ。
それにしてもこのレジュメ「一体いつ作ったんだ」と思ったが、どうもこないだ滋賀でしたレジュメを持ってきていたようだ。
結局11時近くまで飲んだ。
やはりメンバー的にも非常にマニアックであることに変わりは無いが、これで沖縄と広島の交流が広がった。「有限会社長男」の定年後もきっと安泰であろう。
タグ :有限会社長男
2008年06月23日
慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄
6月23日 今日も
暑い今日はU原さんの車で移動となった。
今日は総理大臣も来るらしく、道路が一部通行止めになったりと厳戒態勢である。たいしたことはしゃべらないのに。
道すがら、警官の姿が見える。総理大臣もこれからこの道を通って平和祈念公園に入るのだろう。
我々は一足先に10時過ぎに平和公園に着いた。すでに駐車場は車でいっぱいである。見た目はタクシーなので特に怪しまれずに公園の中枢部に停めることができた。
午後はもっと車が多くなるという。
たしかに、11時半頃我々が平和公園を出て魂魄の塔に向かうとき、反対車線は予想通り大渋滞になっていた。
ここにある平和の礎は、国籍を問わず沖縄戦の犠牲者の名前を一人ひとり刻銘している。
戦後から50年たった1995年につくられた。
沖縄の住民はだけでなく、沖縄戦で犠牲になった軍人(日本人、アメリカ人関係なく)台湾、韓国、朝鮮の人の名前もある。刻銘者の総数は24万人以上という。
勝った国負けた国関係なく、あの沖縄戦で亡くなった「一人の人間」としてその名前が刻銘されている。
刻まれた名前を見たらあのときのことを思い出す。
家族総出でここに来て、子や孫にあのときのことを話す。
しばらくは戦争のこと話すこともできないくらいの状態だったことだろうが、50年の月日でその傷が少しでもやわらいできた。もちろん、今でも思い出すことさえ辛いことだろう。礎に刻まれた名前を前に涙を流し嗚咽するおばぁの姿が印象的だった。
ここが出来て10年以上経った。デイゴが大きくなり木陰が出来ている。
その木陰に座り、あのときのことを思い出し話していく、そんな場所。
各町にも慰霊碑はあり、ここに来るのは1年に1回。そういう家族も多いという。
だけど一人ひとりの家族に起こった話を、語りつづけ、語り継げることができる場所ができたこと、ありつづけることが大切なこと。
戦後、住民の手で初めて建てられた慰霊碑。
南部の米須地域一帯は、沖縄戦で追いつめられた住民、軍人が多数命を失った所。この付近では住民が全滅した地域もある。沖縄戦直後、米軍の命令により米須に移された旧真和志村民は山野に散乱していた無数の遺骨を収容。収容された遺骨の数は25,000~35,000柱と言われている。戦火に倒れた人々を住民、軍人の区別無くまつった納骨堂を作り、その上に慰霊碑が作られた。住民、軍人の区別無くまつるというこの思想は「平和の礎」にしっかりと継げられている。
↓因伯の塔に公式参拝する長男
それぞれの場所で慰霊祭が行われ、その準備段階、慰霊祭の最中、終わった後などいろんな表情を見ることができた。
年々遺族や同窓生が減っているところもある。なにしろもう63年だ。受付の人の話を聞いて規模は小さくなってもそれでも毎年続けなければという思いを感じた。

(平和祈念資料館 展示むすびのことば より)
2008年06月23日
慰霊の日の沖縄へ⑥佐喜眞美術館へ
6月23日、長男は夕方の便で一足早く広島に帰る。
真壁から空港へ向かう途中、糸満の丸三冷し物店でぜんざい。
我々が入った後地元の高校生らがひっきりなしにやってきて店は大盛況となった。まさか30席くらいある席が埋まってしまうとは思わなかった。我々ととなりにいた新聞記者風の男性4人はぜんざいだが、地元の高校生らはそろいもそろって白熊を頼んでいる。糸満を中心にひそかなブームなのだろう。
空港まで見送った後、私は再びゆいレールで国際通りへ戻る。
夕方の17:40過ぎくらいは、夕方といいながら日が暮れるまでは2時間以上ありまだまだ昼間と呼べる時間帯。もうひと行動できそうだ。
ちゅら玉でも土産に買うかーとわしたショップを物色していたところ、長男からメールが
「いまから佐喜眞美術館にいくと、6・23の夕日が階段の窓に差し込むのに間に合うかも」
たしかにそういえばそうなのだが、行く手段が・・・、U原さんの車ももう無いし、
(解説:佐喜眞美術館HPより)
屋上に上ると、空に登っていくような階段があります。その階段の数6段と23段。組織的な沖縄戦が終結したといわれる6月23日(慰霊の日)の太陽が沈む線に沿って美術館は建てられ、この日の夕方、階段の先にある小さな窓に太陽の光が差し込む設計になっています。毎年6月23日には、クラッシック、ジャズ、オペラのコンサート、演劇、映画作品上映などを行いながら、多くの方々とともにこの窓に差し込む美しい夕陽を眺めるイベントを行っています。
屋上の様子。今日この窓から夕陽が差し込むはず。(この写真の撮影は2006年5月)
さて、今から行く手段はバスしかない。
国際通りにもバス停がある。もちろんここで路線バスに乗ることなどほとんど無かったので、バックの中にある地図をみながら宜野湾方面へ行くバスの番号を確認した。
90番のバスに乗ればいいらしい・・・なんて思ってたら、ないげに目の前に90番のバスがやってきた。やはりこれは「行け」と神様が言ってるんだろう。何も考えることなく目の前に停まったバスに乗る。
内地のバスはだいたい後ろ(真ん中)乗り前降りだが、ここ沖縄では真ん中にドアがあっても前乗りだ。真ん中にドアがあるバスも中に入ると改造されていて座席が設置されている。
長男に「宜野湾に向かうバスに乗りました」とメールする。多分長男は機内の人になってケータイも通じないことだろうが・・・
宜野湾市役所の手前、上原というバス停で降りる。ここからは佐喜眞美術館まで歩いて10分くらい。
知らない街にバスで行って降りる。
夕暮れの見知らぬ景色の中、一人歩く。
見知らぬ土地の夕暮れの景色の中、果たして暗くなるまでにちゃんと家に帰れるのかとプチ迷子になったような感覚。
なんか懐かしい感覚がした。
ひとしきり汗をかいて宿に帰る。こんな旅を昔していたなって原点を思い出した気分。
佐喜眞美術館に到着。ここに来るのも3回目になった。
けっこう人がいた。
屋上へ上がるだけなのだが、こんな張り紙もあり、受付へ一言言っといたほうがいいだろうと思い、中へ入る。
講演会か何かがあるらしくそれっぽい人が受付近辺で待っている。受付で話をすると「予約されてますか?」「予約してないです」「立ち見になるけどいいですか?」なんとなく流れで講演会にも潜入できそうな雰囲気だったがよくわからないので却下して、「屋上だけ上がっていいですか?」というとあっさり「どうぞ」
屋上へ潜入。


階段上の窓より
若干曇りだったけど、なんとか雰囲気だけはあった6月23日の夕景でした。
****
「オレは20年間、世界中をずっとずっと航海してきた。繰り返される日々が嫌いだったからな。でも愛する女性を見つけた日から、オレは変わった。今は愛する妻と子供達と一緒に暮らすためにこのジブダルタル海峡を1日2往復するだけの繰り返される毎日を過ごしている。でも、神に誓って言う。今が、一番幸せだ。オレの冒険は、彼女と言う宝を見つけることで終わったんだ」
私が持っている本に書かれてある一節である。
漠然と、今、この気持ちがわかるような気がする。
それは繰り返される毎日のようで、実は繰り返されていない毎日を過ごしてることに気づいたからだろう。一緒に暮らす人がいる中で。
この先、生まれてくる子供にとってもまだまだ生きにくい世の中なんだろう。
それでもこの世の中、この世界中に出て行って、そこでの現実を、世の中のいろいろなものを見て感じて考えて、育っていってほしい。そのためのヒントはいっぱい用意する所存である。
「慰霊の日の沖縄へ」終わり
我々が入った後地元の高校生らがひっきりなしにやってきて店は大盛況となった。まさか30席くらいある席が埋まってしまうとは思わなかった。我々ととなりにいた新聞記者風の男性4人はぜんざいだが、地元の高校生らはそろいもそろって白熊を頼んでいる。糸満を中心にひそかなブームなのだろう。
空港まで見送った後、私は再びゆいレールで国際通りへ戻る。
夕方の17:40過ぎくらいは、夕方といいながら日が暮れるまでは2時間以上ありまだまだ昼間と呼べる時間帯。もうひと行動できそうだ。
ちゅら玉でも土産に買うかーとわしたショップを物色していたところ、長男からメールが
「いまから佐喜眞美術館にいくと、6・23の夕日が階段の窓に差し込むのに間に合うかも」
たしかにそういえばそうなのだが、行く手段が・・・、U原さんの車ももう無いし、
(解説:佐喜眞美術館HPより)
屋上に上ると、空に登っていくような階段があります。その階段の数6段と23段。組織的な沖縄戦が終結したといわれる6月23日(慰霊の日)の太陽が沈む線に沿って美術館は建てられ、この日の夕方、階段の先にある小さな窓に太陽の光が差し込む設計になっています。毎年6月23日には、クラッシック、ジャズ、オペラのコンサート、演劇、映画作品上映などを行いながら、多くの方々とともにこの窓に差し込む美しい夕陽を眺めるイベントを行っています。
さて、今から行く手段はバスしかない。
国際通りにもバス停がある。もちろんここで路線バスに乗ることなどほとんど無かったので、バックの中にある地図をみながら宜野湾方面へ行くバスの番号を確認した。
90番のバスに乗ればいいらしい・・・なんて思ってたら、ないげに目の前に90番のバスがやってきた。やはりこれは「行け」と神様が言ってるんだろう。何も考えることなく目の前に停まったバスに乗る。
内地のバスはだいたい後ろ(真ん中)乗り前降りだが、ここ沖縄では真ん中にドアがあっても前乗りだ。真ん中にドアがあるバスも中に入ると改造されていて座席が設置されている。
長男に「宜野湾に向かうバスに乗りました」とメールする。多分長男は機内の人になってケータイも通じないことだろうが・・・
宜野湾市役所の手前、上原というバス停で降りる。ここからは佐喜眞美術館まで歩いて10分くらい。
知らない街にバスで行って降りる。
夕暮れの見知らぬ景色の中、一人歩く。
見知らぬ土地の夕暮れの景色の中、果たして暗くなるまでにちゃんと家に帰れるのかとプチ迷子になったような感覚。
なんか懐かしい感覚がした。
ひとしきり汗をかいて宿に帰る。こんな旅を昔していたなって原点を思い出した気分。
けっこう人がいた。
屋上へ上がるだけなのだが、こんな張り紙もあり、受付へ一言言っといたほうがいいだろうと思い、中へ入る。
講演会か何かがあるらしくそれっぽい人が受付近辺で待っている。受付で話をすると「予約されてますか?」「予約してないです」「立ち見になるけどいいですか?」なんとなく流れで講演会にも潜入できそうな雰囲気だったがよくわからないので却下して、「屋上だけ上がっていいですか?」というとあっさり「どうぞ」
屋上へ潜入。
階段上の窓より
若干曇りだったけど、なんとか雰囲気だけはあった6月23日の夕景でした。
****
「オレは20年間、世界中をずっとずっと航海してきた。繰り返される日々が嫌いだったからな。でも愛する女性を見つけた日から、オレは変わった。今は愛する妻と子供達と一緒に暮らすためにこのジブダルタル海峡を1日2往復するだけの繰り返される毎日を過ごしている。でも、神に誓って言う。今が、一番幸せだ。オレの冒険は、彼女と言う宝を見つけることで終わったんだ」
私が持っている本に書かれてある一節である。
漠然と、今、この気持ちがわかるような気がする。
それは繰り返される毎日のようで、実は繰り返されていない毎日を過ごしてることに気づいたからだろう。一緒に暮らす人がいる中で。
この先、生まれてくる子供にとってもまだまだ生きにくい世の中なんだろう。
それでもこの世の中、この世界中に出て行って、そこでの現実を、世の中のいろいろなものを見て感じて考えて、育っていってほしい。そのためのヒントはいっぱい用意する所存である。
「慰霊の日の沖縄へ」終わり
2008年06月13日
脚立から落ちる
今日は私は仕事(平日だし)、妻は休み。
19:00前に家に帰ると、妻の車は無い。まだ帰ってないというのはわかったが、玄関開けるとそこには脚立(2段の小さいやつ)が置かれたままで、カーテンが設置されつつあり、さらに奥では2,3日前から調子の悪かった折り畳み椅子が解体されつつあり、その状況で放置状態で妻はいなくなっていた。
なんとも中途半端な状況で・・・と思ったが、台所に書き置きが・・・。
「脚立から落ちてしまったので、念のために病院にいってきます。17:30」
びっくりしてケータイに電話するも、妻のケータイが家の中で鳴った。きっと着の身着のままで飛び出して行ったんだろう。
こっちも連絡するすべが無くなり仕方なく、大丈夫だろうと自分を安心させるために「妊娠出産の気がかりQ&A」の該当ページを探す。
そんなことをしてたら妻は帰ってきた。
大丈夫だったらしい。
羊水に守られてるから出血とかなかったら大丈夫のよう。とりあえずほっと胸をなでおろす。
そして病院で、エコーで赤ちゃんの手と足がばたばた動いているのが見せてもらったようで不思議な気分になったという。大きさも2.6cmになった。月曜に診察に行ったときは2.1cmだったから、5日間で5mm大きくなったのか。
そんなわけで、この時期、今後脚立は厳禁である(まぁこれで自分から乗ることは無いと思うが)。
明日は久々の長男邸へ。こちらもこの時期、野球の話題は厳禁だろう。なぜならば長男はベイスターズファンだからである。(と、いいながら自分から自虐的に話し出すかもしれないが・・・)
19:00前に家に帰ると、妻の車は無い。まだ帰ってないというのはわかったが、玄関開けるとそこには脚立(2段の小さいやつ)が置かれたままで、カーテンが設置されつつあり、さらに奥では2,3日前から調子の悪かった折り畳み椅子が解体されつつあり、その状況で放置状態で妻はいなくなっていた。
なんとも中途半端な状況で・・・と思ったが、台所に書き置きが・・・。
「脚立から落ちてしまったので、念のために病院にいってきます。17:30」
びっくりしてケータイに電話するも、妻のケータイが家の中で鳴った。きっと着の身着のままで飛び出して行ったんだろう。
こっちも連絡するすべが無くなり仕方なく、大丈夫だろうと自分を安心させるために「妊娠出産の気がかりQ&A」の該当ページを探す。
そんなことをしてたら妻は帰ってきた。
大丈夫だったらしい。
羊水に守られてるから出血とかなかったら大丈夫のよう。とりあえずほっと胸をなでおろす。
そして病院で、エコーで赤ちゃんの手と足がばたばた動いているのが見せてもらったようで不思議な気分になったという。大きさも2.6cmになった。月曜に診察に行ったときは2.1cmだったから、5日間で5mm大きくなったのか。
そんなわけで、この時期、今後脚立は厳禁である(まぁこれで自分から乗ることは無いと思うが)。
明日は久々の長男邸へ。こちらもこの時期、野球の話題は厳禁だろう。なぜならば長男はベイスターズファンだからである。(と、いいながら自分から自虐的に話し出すかもしれないが・・・)



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