2008年07月21日

「ぐるりのこと。」

どこにでもありそうな夫婦の話。
「妻の鬱を夫が支えていく。」そういった話かと思ったが、夫の職場のこと、妻の家族のこと、裁判を通じて見る世の中のこと、いろんな話が混在していた。

私が感動したのは、この場面 (若干ネタばれですが・・・)

妻が鬱から回復しつつある年の春夏秋冬。(映画の順番では冬春夏秋)
妻が絵を描くことを決め、夫の仕事は板につき、二人で暮らす何気ない毎日が続く。
季節すらうっとおしく思えていた時期を超えて、好きなもの没頭できるものをみつけ、たしかに人間の社会だから面倒なこともいろいろあるけれど、眩しい景色の中、それでも世の中は素晴らしいと思える。
まったく何気ないごく普通の場面のひとつひとつが、季節季節の鮮やかな背景をバックにして、何故かものすごく感動的に見えた。

さて、話の行方は絵が完成してからもいろいろ続いたものの、この場面に出会えたことが、この映画を見ての一番の収穫でした。  

Posted by tana at 22:16Comments(2)TrackBack(0)映画,本,CD他

2008年07月20日

おーりとーり

過去の旅日記はこちらから

  05.09粟国島へ
     長男・次男とナビィのロケ地を探す旅
  05.11戦跡を巡る
     第2回有限会社長男戦跡ツアー
     (当時、参加者は3人いた)
  06.09伊是名へ?
     伊是名上陸を目指すも、超大型台風に行く手をさえぎられ・・・
  07.02リベンジ伊是名
     前年のリベンジを果たすため、長男・次男・Fの最強メンバーで再度伊是名へ
  07.12炭水化物3年連続のNAHAマラソン
     そして、我々は2年連続のNAHAマラソン観戦
  08,06慰霊の日の沖縄へ
     6月23日、慰霊の日近辺の沖縄を巡る旅(加えて長男はガマ、私は久高島へ)
     
別館写真ブログ「旅の途中の日常」にて 07.09鳩間の写真 をアップ中!  

2008年07月19日

鯉正念場

緊急事態に伴い、こちらにも・・・
まだ3位まで3ゲーム差。今こそ熊のパワーだ!

↓今年の鯉の模様はこちらに↓
鯉が優勝するまで続けるブログ


・・・あ、そういえば。

裏鯉軍団に補強です。
シーツが抜けてラロッカが怪我のため空いていたショートに守備の名手が加入!
(そして佐竹、ダグラスも緊急補強!)

1番 CF 福地
2番 2B 木村拓也
3番 3B 新井
4番 LF 金本
5番 1B 江藤
6番 RF ソリアーノ
7番 C  木村一善(現 考壱朗)
8番 SS 山崎
9番 P  黒田、小山田、佐竹、デイビー、菊地原、ダグラス
  

Posted by tana at 23:19Comments(0)TrackBack(0)2008年の鯉

2008年07月12日

次男Tシャツ贈呈式行われる。



これで長男邸に行くのは何度目になるのだろうか・・・、数えたことも無い。

その長男邸にて今回は、前回沖縄の土産「次男Tシャツ」の贈呈式が行われた。
長男は「長男Tシャツ」を購入。「従兄弟Tシャツ」はなかった。

今回のメンバーは次男、炭水化物、N原氏、そして我々夫妻の計6名。例外なく濃いメンバーが集まった。

いつものように長男のつくる料理をつまみにしながらテレビ画面は、甲子園での鯉vs鯉大阪支部との手に汗握る展開を見ていた。テレビで新井が出てくると「ぶつけてしまえ」と相変わらずのブーイングである。
しかし、関本にサヨナラ打を打たれ、負けが確認されるとそれまで野球はなかったかのように速攻で「サラリーマンNEO」のDVDに変わった。その後夜中までエンドレスサラリーマンNEO・・・

夜中、知らない間に炭水化物は帰っていった。

次の朝、長男朝定食をがっつり食べ、昼には出石そば(5月の出石土産、ただ賞味期限が切れて1週間経過)を食べる。食べてばっかりだ。
妻のつわりも夕方~夜はデロデロになりほとんど食べることが出来ないが、午前中は安定しており、それなりに食べることできる。結局13時過ぎまで例の部屋でまったりごろごろしていた。

そして、なんとなくの流れで9月の沖縄離島行き(有限会社長男 離島事業部)の行程が大体決定した。

9月20日 広島→那覇、レンタカーで本部のペンションビセザキへ
21日 伊平屋へ
22日 伊平屋から伊是名へ。(伊是名ではこないだの民宿ときわか?)
23日 伊是名から本島に戻り、一気に那覇へ、そして広島へ帰国  


予定メンバーは長男次男、私、妊娠6ヶ月目になる妻、妻の職場の後輩(我々の旅に同行するのは初めてである。途中で「帰る!」とかいいださないか大変心配であるが、まぁ3日目くらいにはこんなものだろうと納得(あきらめ?)してもらえるだろうという結論に達した。)

そして写真のようなの敗残兵&作務衣の格好の次に怪しげな格好で長男次男は伊是名島を徘徊することがはや決定。

次回は「パイナップルツアーズ」と見ながらの事前学習会となるであろう。乞うご期待。  

2008年07月04日

私は潜りませんが・・・

沖縄で潜ろう!
青い空、青い海、白い砂浜、真っ赤な花・・・そんなオキナワにまったく無縁なツアー

それが、「沖縄で潜ろう!」

潜るといっても海ではない。沖縄といえば洞窟だ!
沖縄の母なる大地の下には無数の洞窟(ガマ)、そして戦争遺跡としての地下壕。真っ暗な闇のなか、懐中電灯がたより。コウモリを友とし、美しい鍾乳石に目を奪われる。時には遺骨、遺品に手を合わせ、不発弾に恐怖を抱きつつ、無事地上に辿り着いたときの、空気の美味さと、太陽の光のありがたさ。生きていてよかったと思わず体感!



今年、2008年は、沖縄慰霊の日、
6月23日を中心に”不評にもめげず”決行予定




  
左)経験豊富なガイドがハブよけの棒をもってご案内
中)常連のガママニア(今回同行予定)です
右)無事生還した後のぜんさいの美味しさを味わおう!


興味のある方は私か長男まで

<注意事項>
懐中電灯、ヘルメット、軍手、長靴は各自で準備お願いします。
なお私は沖縄本島までは同行しますが、NAHAマラソンコース下見の為ガマには潜りません。(下見が無くてもガマには潜りません。)ケガ、転落、落盤、生き埋めなどすべてについて責任を負いません。

・・・馬鹿なんじゃないのか?  

2008年07月04日

21回目の沖縄へ

先日、次男は沖縄へ行く際、作務衣と雪駄と風呂敷包みで飛行機に乗り込んだという。周囲に数奇な目で見られたことだろう。
そんな話を聞き、本日、長男は沖縄へ日本兵の格好で乗り込んだと聞いた。周囲の人に目をあわせてもらえなかったことだろう。
沖縄へ着き敗残兵となって宿にチェックインするも、宿泊を断られないかたいへん心配だ。
私がいれば「この人にはちゃんとした民間人がついている」と周りの住民も安心するだろう。
よって私も明日の朝、沖縄へ旅立たなければならない。

先ほど、この期に及んで長男から「長靴をもってこい」というメールが届いた。
残念ながらもう荷造りを済ませた後だ。残念ながら持っていけそうに無い。「残念ながらもうこれ以上荷物は入りません。大変残念です。」と返信メールを送った。満面の笑みで。

梅雨前線の動向とか身重の妻の体調とか、この4日間は公私共に気になる点はたくさんあるのだが、前述の状況により行かないわけにはいかないだろう。
大変やむを得ない状況である。  

2008年07月04日

慰霊の日の沖縄へ①初日

6月21日 10:00すぎ那覇空港着。

ゆいレールで市内へ

ゆいレールを見て思うのは「那覇に帰ってきたなぁ~」ということではない。最近は「超感動大作DVD『ゆいレール』」を思い出してしまってしょうがないのだ。
しかも今回は一番前の座席の後ろに立っていたものだからあのDVDの様子が刻明に思い浮かんでしまう。
「ドアしまりまーす!!」(←マニアにしかわからないネタであった)

県庁前から新金一までの道のりを歩く。
最初の感想「暑い!!」。
沖縄は梅雨明けしておりすでに夏の日差しが降り注いでいる。10分ほど歩くだけなのに汗だくになりそうだ。

今回の旅は長男が5年前から実行している「沖縄戦当時住民がいたガマに潜り当時の状況を追体験しよう」というツアー。通称ガマツアーと呼んでいる。(写真のようなイメージです)
3年前から「当時の梅雨末期の状況に合わせよう」と時期も6月に設定した。5年前こそ参加者5名と盛況を誇ったが、以後参加は3名→2名と減り続け昨年はついに長男一人になってしまった。今年は「慰霊の日の沖縄の様子が見たい、だがガマの行程の日は別行動」という私の条件でなんとか2名を確保した次第である。
そんなわけで長男は一日でも長くガマライフを満喫するために前日から沖縄入りしていた。そして今日私が11時前に新金一に到着するためフロントに部屋のカギを預けておいたのだ。   
そんなわけで既に話が伝わっていたのか11時前に着くと「ta●●さんですね」とvip待遇であった。
長男に無事到着した旨のメールを打ち昼を食べに行く。

大栄食堂のイナムドゥチ定食

食堂でかかっていたラジオで今日FC琉球の試合(サッカー)があるらしい、というようなことを言っている。一瞬行ってみようかと気が動いたが、どこでやるかもわからないし、第一暑かろう。そんなわけで却下。

そういえば長男からはメールの返事は返ってこない。まぁガマの中は電波が届かないんだろうね。

食後、今日の目的地県立博物館へ行く。新しくなってからまだ行ってないのだ。

市場通りから牧志の駅に行くまで(これも10分ほどだが)これだけでも耐え切れないほどの暑さだ。駅のホームにいると日陰で風通しもよく気持ちいい。ずっとここにいてもいいとさえ思ったくらいだ。
そういえば当初は那覇マラソンの下見をしようと、那覇マラソンコースを平和公園くらいまで歩いてみようかなどと思っていたのだった。考え自体が浅はかだった。
昨日長男からのメールで「外は暑いけどガマの中は涼しいよ」なんて言ってたが、私はガマでなく駅のホームで十分である。



メールと言えばさっきのメールの返事が長男からまだ返ってこない。
こりゃ生き埋めか?
まぁそれも仕方ない。何があってもすべて自己責任、これがガマツアーの鉄則である。生き埋めになればなったで仕方ないのだ、とやってきたモノレールに乗り「おもろまち」に向かった。

県立博物館へ。

1609年に当時の琉球王国が薩摩に攻め込まれた。琉球民族にしてみればそれ以降は外国(日本、アメリカ)に占領されたという形だ。来年で400年になるのか。そろそろチベットの中国に対する動き同様に琉球の日本(アメリカ)からの独立という動きも本格的に勃発しないかなと思った。
特に最近の日本化されてきた沖縄(特に那覇周辺)を見るにつけ思う。

14時過ぎ県立博物館を出る。

長男からメールが返ってくる。
「3時間ほどガマを歩いて今具志頭ドライブインでAランチ」
3時間もガマの中にいたのか。きちがいだすっかりガマライフを満喫している。

夕方、長男と部屋で合流し晩を食べに行く。
辻の「ジョージ」へ、これで多分3回目だ。
生2杯とタコスとインチラダス。メキシカンディナーである。
もう少し食べれるかなと思ったが、長男は「もういらん」という表情。
朝から晩までガマに潜って疲れているのか、やはり長男も人間なのだと感じた。

  
       タコス(絶品!)                 インチラダス

さて、インチラダスというものがどういうものかは私にはよく分からないのだが、バイトのお姉さんもよくわからなかったようで、裏で店長からどんなものかレクチャーを受けていた。3年前のバイト面接騒動(まぁ騒動というほどでもないが)を思い出した。

旧ステーツサイズが「無料案内所」になっていた・・・。なんと・・・  

2008年07月04日

慰霊の日の沖縄へ②斎場御嶽・安座真港

6月22日 今日も晴れ

朝、起き抜けに長男は言った。
「今日行く最初の壕は午後になると軍関係の遺族が慰霊祭をするらしく、関係者が準備に来ない朝早くに潜っておかないといけないんだ。」
そんなわけで長男は朝8時に部屋を出ていった。人ごとながらなんか大変そうである。
私はといえば長男が出て行ったあと、優雅にシャワーを浴び、そして優雅にレンタカー屋のある久茂地まで歩いていった。
しかし、9時前なのに今日も暑い!

二日目はレンタカーで知念半島近辺を回る行程にしている。斎場御嶽→久高島→時間があれば奥武島を回ろうというコースである。
ふと気づいた。
沖縄は21回目になるのだがなぜかこのコースは一度も行ったことが無い、と。
たしかに同じ知念半島でも玉城村(おきなわワールドのある)南の南部には良く行くし、東海岸沿いをコザ方面に北上するにしても行くのは西原町より北なのである。
この辺は意外と盲点だということに気づいた。

また、このコースは琉球の神事にも触れることの出来るコースでもある。
写真は斎場御嶽から望む久高島→
斎場御嶽は、御嶽(南西諸島に広く分布している聖地)の中でも琉球王国で最高の御嶽だという。神の島久高島が拝められ、島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。
久高島とは、琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという琉球神話で聖地の島である。ちなみにシロミキヨとは百発百中の神のことである。

斎場御嶽
観光地なので訪れる観光客は多い。
有名なのは、写真にあるような久高島が拝めるという拝所である。三庫理(サングーイ)と呼ぶようである。
ここではスピリチュアルな団体と一緒になった。
久高島を拝む場所でとなりの女性はいきなり目を閉じ島から来る気を浴びているのか昇天するような表情をしている。別の人は座り込んでヨガを始めだし、その人の周りをみんなで取り囲みみんなで頭をなでたりなど・・・
世の中にはいろんな人がいるものと実感。それを考えると3日間どっぷりと計十数個のガマに潜る行為など至って普通なのかもしれない。

・・・そんなことはないだろう。(我に返った。)

次の目的地、久高島には安座真港からフェリー・高速艇で20分ほど。
1日6本、フェリーと高速艇が交互に出る。
往復の船のチケットを買う(高速艇往復1,410円)と「地図はいりますか」と島の地図もいっしょにくれた。
手書きで飾り気のない昔ながらの地図だった。実のところ島の地図も持ってなく、久高島といえば御嶽がいっぱいある神の島というくらいの知識しか私にはなく、まぁ上陸したら神の恩恵を体中に浴び、以降鯉は連戦連勝になるのだろうと思っていたくらいだからこの地図が非常に頼りになった。

港にかわいい売店がある。

島で昼を食べようとは思ってるが、向こうに食堂などあるのだろうか?パンでも買っていったほうがいいのだろうか?などと思ってしまったが、よく考えるとちゃんと人口も200人以上住んでいる島である。何も無いことは無いだろう。万が一食堂は無くても売店くらいはあってパンくらいは買えるだろう。

11:30久高島行きは安座真港を出発!  

2008年07月04日

慰霊の日の沖縄へ③久高島

6月22日(日)11:50頃
20分ほどで島に着いた。
港はまるでベンチのある待合所だけがあり殺風景でどこかの工事現場のようである。
上の道路に出ると港の建物があった。



当面の懸案の食堂は2つあった。大きい食堂と小さい食堂の2つが道を挟んで建ってあった。
大きい食堂は扉が開いていて若干中が見える。小さい食堂は扉は閉められており中は見えない。入りやすいのは大きい食堂であろう。私も自分自身で予想はしていたが、予想通り小さい食堂の方に入ってしまった。悲しい性であろう。
メニューを見ると、お勧めメニューとして一番上に「海ぶどう丼(1,000円)」というのもあったがこれを頼むとなんか観光客みたいだ。何のために小さい食堂にしたんだ?という思いから「そば(500円)」を食べた。

  


ラジオでは「沖縄戦がいつから始まっていつ終わったのか」という話をしていた。
4月1日と間違える人が多いが、最初の上陸は3月24日の慶良間諸島が始めである。そして終わりも慰霊の日の6月23日と思いがちだが、それも「日本軍の組織戦」が終わったにすぎず、住民にとっても終戦はまだ先だった。というような話。

明日は63年目の慰霊の日だ。

テレビのニュースを見ても沖縄ローカルニュースでは慰霊の日を前にした地域での取り組みとか学校で語り部を呼んで当時の話を聞くといった学習とか、そういったニュースで賑わっていた。
慰霊の日に向けて、一日だけの一部だけの一過性のものにしないため、地域や学校、マスコミ上げて、沖縄戦を風化させまいという思いをひしひしと感じた。

食後はレンタサイクルで島を一回り。
島の北のほうシュガーロードから見えた海。きれいだった。



これまた島の北のほうにあるクボー御嶽

説明の看板がある。「昔、神々が天下りされた七御嶽のひとつである。(天下りといっても今の天下りとは違うだろう。だいたい今天下りしてるのはどう考えても神々ではない。)今でもこの地内の円形の広場は、イザイホー、フバワク等の祭事が行われ、久高住民にとって聖域の場である。また、男子禁制の場でもある。(よって写真より先には入ってません。)」


第一尚氏王統七代の尚徳王が鬼界島征伐後凱旋報告の為来島された時、当時の美人クニチャサ祝女に惚れ、長い間同棲した。その場所が大里家である。しかし王が首里城を忘れているうちに城では革命が起こった。急いで帰途についたが、王朝は転覆して尚円王(金丸)が王位についた。その話を聞いた尚徳王は海に身を投げたと伝えられている。

・・・港でもらった地図にこのような「大里家のエピソード」が書かれてあった。なんとも面白かったのでこれはいかねばと探したが、結局のところ案内なども無くどれが大里家なのかはわからなかった。

真昼の炎天下である。自転車で走るとどっと汗が出るが、下りになるとその汗も風で飛ばされていくような感覚になり気持ちいい。
ゆっくり走っても1時間もあれば一回りできる島である。14時過ぎには港に戻ってきた。自転車を返し、船の出発時間は15時。しばらく港の待合所でぜんざいを食べまったりとした時間を過ごした。

  
  

2008年07月04日

慰霊の日の沖縄へ④奥武島&長男のガマ仲間と飲む

15:20頃、久高からの高速艇は本島に戻った。
安座真港に停めておいたレンタカーで南へ、次の目的地奥武島に向かっていた。
30分ほどで奥武島を渡る橋を越える。ここは橋で繋がっており、橋の下は浜辺になっていて梅雨が開け多分今年初めての水遊びを楽しんでいる人が多い。
ここへ来た目的はひとつ。中本鮮魚店である。ただ鮮魚店といいながらほとんどの客の目当ては「天ぷら」である。

着いて唖然とした。
むちゃくちゃ並んどるやないか。

店の前だけでなく前の道も路駐が多い。しかし「わ」ナンバーばかりというわけではなく、けっこう地元の人も多いようだ。浜辺で遊んだ地元の(近くから車で遊びに来た)ウチナンチュがおやつがわりに天ぷらを食べているのだろう。

1個60円。もずく、イカ、イモ、やさい等々あった。昨今の原材料高により10円値上げせざるを得なくなったことを張り紙してお断りしている。原材料高にしろ原油高にしろ、なぜこんなに高くなったのかというその根本を議論して欲しいものである。
1個60円。15分ほど待って購入。
60円といいながら十分すぎるボリュームである。
どれも揚げたてで特に「イカ」は絶品だった。

16:20頃。
その後平和祈念公園まで足を伸ばし慰霊の日前日の様子が見たくなった。
17:00には着いたが、ほぼ同時に長男からメールが。
「もうつきます。」
主語もなく漢字変換もされてないこの一言のメールから今日の行程の壮絶さが感じ取れる。
そう今晩は長男のガマ仲間と飲むことになったのだ。
このツアーのガイド役でありそしてこの長い付き合いですっかり長男の戦友のようになってしまったU原さんから「仲間を集めますのでぜひ広島での戦争の話をしてください」と頼まれたようだ。

ガマには潜らなかった私も一緒に首里で19時から飲む約束をしていたので、早く帰らねば・・・那覇市内に戻った。

レンタカーを返し、宿に戻り、簡単にシャワーを浴びて、タクシーで首里まで。19:00すぎに店に入った。

その後、おおまかなメンバーが集まったのを見計らって沖縄側から自己紹介。
みなさん個人タクシーや観光バスなどで平和ガイドをしている方のよう。予想通りガマ仲間と呼んでよさそうだ。そして長男、私と自己紹介が続く。
「この方(長男)に連れられ過去3回ガマツアーに来ましたが、今回は別行動です。」
と自己紹介するも、これに沖縄側から質問が、
「どうして別行動?」「なぜ入らないの?」
答弁
「いや・・・、回を重ねるごとにどんどん入るところが厳しくなって・・・」
こんな答弁じゃいかん、ととっさに思ったが、この状況はなんというか、私がまるで負け犬みたいではないか。
いつもとは違う。ホームの広島じゃ次男、炭水化物、N原さんなど私寄りの考えでほとんど支配されているというのに(「入ったらいいのに」と言うのは私の妻くらいである。)ここ沖縄では完全にアウェイだ。
こんなはずじゃない。

ここで誤解のないように言っておきたいが、私はガマには入るのはもう御免だと言っているのではなく(それもあるが)、例えば修学旅行生が班別行動で入るような、追体験として人にガイドするために入るレベルのところであればむしろウエルカムなのである。
それにしても大変おかしな状況だ。

その後話題は広がりハブの話題になった。「私はハブの抜け殻しか見てない」「私は本物を見た」「私は50cm手前で見ました」「いや私はカメを見ました」「カニを見た」「魚を見た」「あれはグッピーだった」など言いたい放題。ただ普通の飲み会とは違うのが先ほどの会話「全部ガマの中で見たもの」という話だということである。全く大変おかしな状況だ。自覚症状はあるのだろうか。

まぁガマを除いてはみなさん真摯に平和ガイドとして日々学習している方々であり、今回も沖縄ではなかなか聞くことの出来ない広島での戦争の話に真剣に耳を傾けていた。長男もA4 5枚くらいのレジュメまで作って30分程度話をした。(私としても話を聞き、被爆2世、3世とてもデリケートな問題であることを知った。)
それにしてもこのレジュメ「一体いつ作ったんだ」と思ったが、どうもこないだ滋賀でしたレジュメを持ってきていたようだ。

結局11時近くまで飲んだ。
やはりメンバー的にも非常にマニアックであることに変わりは無いが、これで沖縄と広島の交流が広がった。「有限会社長男」の定年後もきっと安泰であろう。  

2008年07月04日

慰霊の日の沖縄へ⑤慰霊の日の沖縄




6月23日 今日も晴れ 暑い
今日はU原さんの車で移動となった。
今日は総理大臣も来るらしく、道路が一部通行止めになったりと厳戒態勢である。たいしたことはしゃべらないのに。
道すがら、警官の姿が見える。総理大臣もこれからこの道を通って平和祈念公園に入るのだろう。
我々は一足先に10時過ぎに平和公園に着いた。すでに駐車場は車でいっぱいである。見た目はタクシーなので特に怪しまれずに公園の中枢部に停めることができた。
午後はもっと車が多くなるという。
たしかに、11時半頃我々が平和公園を出て魂魄の塔に向かうとき、反対車線は予想通り大渋滞になっていた。




ここにある平和の礎は、国籍を問わず沖縄戦の犠牲者の名前を一人ひとり刻銘している。
戦後から50年たった1995年につくられた。
沖縄の住民はだけでなく、沖縄戦で犠牲になった軍人(日本人、アメリカ人関係なく)台湾、韓国、朝鮮の人の名前もある。刻銘者の総数は24万人以上という。
勝った国負けた国関係なく、あの沖縄戦で亡くなった「一人の人間」としてその名前が刻銘されている。

 

刻まれた名前を見たらあのときのことを思い出す。
家族総出でここに来て、子や孫にあのときのことを話す。
しばらくは戦争のこと話すこともできないくらいの状態だったことだろうが、50年の月日でその傷が少しでもやわらいできた。もちろん、今でも思い出すことさえ辛いことだろう。礎に刻まれた名前を前に涙を流し嗚咽するおばぁの姿が印象的だった。




ここが出来て10年以上経った。デイゴが大きくなり木陰が出来ている。
その木陰に座り、あのときのことを思い出し話していく、そんな場所。

各町にも慰霊碑はあり、ここに来るのは1年に1回。そういう家族も多いという。
だけど一人ひとりの家族に起こった話を、語りつづけ、語り継げることができる場所ができたこと、ありつづけることが大切なこと。

その後、魂魄の塔へ。
戦後、住民の手で初めて建てられた慰霊碑。
南部の米須地域一帯は、沖縄戦で追いつめられた住民、軍人が多数命を失った所。この付近では住民が全滅した地域もある。沖縄戦直後、米軍の命令により米須に移された旧真和志村民は山野に散乱していた無数の遺骨を収容。収容された遺骨の数は25,000~35,000柱と言われている。戦火に倒れた人々を住民、軍人の区別無くまつった納骨堂を作り、その上に慰霊碑が作られた。住民、軍人の区別無くまつるというこの思想は「平和の礎」にしっかりと継げられている。

↓因伯の塔に公式参拝する長男
その後は、広島の塔、開南健児の塔、ずいせんの塔、でいごの塔、ひめゆりの塔、白梅の塔、萬華の塔等々巡った。
それぞれの場所で慰霊祭が行われ、その準備段階、慰霊祭の最中、終わった後などいろんな表情を見ることができた。
年々遺族や同窓生が減っているところもある。なにしろもう63年だ。受付の人の話を聞いて規模は小さくなってもそれでも毎年続けなければという思いを感じた。




(平和祈念資料館 展示むすびのことば より)
  

2008年07月04日

慰霊の日の沖縄へ⑥佐喜眞美術館へ

6月23日、長男は夕方の便で一足早く広島に帰る。

真壁から空港へ向かう途中、糸満の丸三冷し物店でぜんざい。
我々が入った後地元の高校生らがひっきりなしにやってきて店は大盛況となった。まさか30席くらいある席が埋まってしまうとは思わなかった。我々ととなりにいた新聞記者風の男性4人はぜんざいだが、地元の高校生らはそろいもそろって白熊を頼んでいる。糸満を中心にひそかなブームなのだろう。

空港まで見送った後、私は再びゆいレールで国際通りへ戻る。
夕方の17:40過ぎくらいは、夕方といいながら日が暮れるまでは2時間以上ありまだまだ昼間と呼べる時間帯。もうひと行動できそうだ。
ちゅら玉でも土産に買うかーとわしたショップを物色していたところ、長男からメールが

「いまから佐喜眞美術館にいくと、6・23の夕日が階段の窓に差し込むのに間に合うかも」
たしかにそういえばそうなのだが、行く手段が・・・、U原さんの車ももう無いし、

(解説:佐喜眞美術館HPより)
屋上に上ると、空に登っていくような階段があります。その階段の数6段と23段。組織的な沖縄戦が終結したといわれる6月23日(慰霊の日)の太陽が沈む線に沿って美術館は建てられ、この日の夕方、階段の先にある小さな窓に太陽の光が差し込む設計になっています。毎年6月23日には、クラッシック、ジャズ、オペラのコンサート、演劇、映画作品上映などを行いながら、多くの方々とともにこの窓に差し込む美しい夕陽を眺めるイベントを行っています。


屋上の様子。今日この窓から夕陽が差し込むはず。(この写真の撮影は2006年5月)

さて、今から行く手段はバスしかない。
国際通りにもバス停がある。もちろんここで路線バスに乗ることなどほとんど無かったので、バックの中にある地図をみながら宜野湾方面へ行くバスの番号を確認した。

90番のバスに乗ればいいらしい・・・なんて思ってたら、ないげに目の前に90番のバスがやってきた。やはりこれは「行け」と神様が言ってるんだろう。何も考えることなく目の前に停まったバスに乗る。
内地のバスはだいたい後ろ(真ん中)乗り前降りだが、ここ沖縄では真ん中にドアがあっても前乗りだ。真ん中にドアがあるバスも中に入ると改造されていて座席が設置されている。
長男に「宜野湾に向かうバスに乗りました」とメールする。多分長男は機内の人になってケータイも通じないことだろうが・・・

宜野湾市役所の手前、上原というバス停で降りる。ここからは佐喜眞美術館まで歩いて10分くらい。

知らない街にバスで行って降りる。
夕暮れの見知らぬ景色の中、一人歩く。
見知らぬ土地の夕暮れの景色の中、果たして暗くなるまでにちゃんと家に帰れるのかとプチ迷子になったような感覚。
なんか懐かしい感覚がした。
ひとしきり汗をかいて宿に帰る。こんな旅を昔していたなって原点を思い出した気分。

佐喜眞美術館に到着。ここに来るのも3回目になった。
けっこう人がいた。
屋上へ上がるだけなのだが、こんな張り紙もあり、受付へ一言言っといたほうがいいだろうと思い、中へ入る。
講演会か何かがあるらしくそれっぽい人が受付近辺で待っている。受付で話をすると「予約されてますか?」「予約してないです」「立ち見になるけどいいですか?」なんとなく流れで講演会にも潜入できそうな雰囲気だったがよくわからないので却下して、「屋上だけ上がっていいですか?」というとあっさり「どうぞ」

屋上へ潜入。






階段上の窓より

若干曇りだったけど、なんとか雰囲気だけはあった6月23日の夕景でした。



****

「オレは20年間、世界中をずっとずっと航海してきた。繰り返される日々が嫌いだったからな。でも愛する女性を見つけた日から、オレは変わった。今は愛する妻と子供達と一緒に暮らすためにこのジブダルタル海峡を1日2往復するだけの繰り返される毎日を過ごしている。でも、神に誓って言う。今が、一番幸せだ。オレの冒険は、彼女と言う宝を見つけることで終わったんだ」

私が持っている本に書かれてある一節である。
漠然と、今、この気持ちがわかるような気がする。
それは繰り返される毎日のようで、実は繰り返されていない毎日を過ごしてることに気づいたからだろう。一緒に暮らす人がいる中で。

この先、生まれてくる子供にとってもまだまだ生きにくい世の中なんだろう。
それでもこの世の中、この世界中に出て行って、そこでの現実を、世の中のいろいろなものを見て感じて考えて、育っていってほしい。そのためのヒントはいっぱい用意する所存である。

            「慰霊の日の沖縄へ」終わり  

2008年07月03日

妊娠4ヶ月目に入る

沖縄旅行記は次回、いよいよ「慰霊の日」に入ります。が、今週は産科の検診があったのでその話を・・・

妊娠4ヶ月目に入る。
妻のつわりが始まって1ヵ月半くらいになる。腹も徐々に大きくなっている。下腹が張るようで、張り止めを飲み始めた。
つわりは一時期の最高潮の時期に比べたら治まってきたのかもしれないが、二日調子がよかったと思ったら、次の二日はでろでろだったりとやっぱり大変そうだ。

今週検診があった。
赤ちゃんは5.7cm。妻はいろいろ大変なのだが子は無事生きている。エコーで見ると背骨もくっきりと見えるようになった。さらに腕を前後に振ってのんきにダンスをしたりバンザイをしたままだったり。産科の先生にも「こいつは面白いやつじゃ」といわれたよう。4ヶ月にして遺伝子には逆らえないようだ。先が思いやられる。どっちの遺伝子かといえば妻のだろう。

エコーの動画をDVDにしてもらったので家のパソコンで見る。4Dにした映像もあったがまだ頭蓋骨に皮が張り付いた状態であり「あなたはウルトラマンですか?」と思ってしまった。グロテスクである。「エイリアンみたい」と言った人もいたようだ。失礼な、人の子にむかって。そんなこと言うのは誰だ?と思ったら妻が言っていた。

まぁなんにしてもエイリアンが腹の中にいるんだから、そりゃあつわりも大変だろう、ということで今日も妻はエイリアンの発するつわりにうんうんとうなされ、そして征服されたのか力尽きいつのまにか寝ていた。
次回の検診、来月には性別もわかるらしい。  

2008年06月13日

脚立から落ちる

今日は私は仕事(平日だし)、妻は休み。

19:00前に家に帰ると、妻の車は無い。まだ帰ってないというのはわかったが、玄関開けるとそこには脚立(2段の小さいやつ)が置かれたままで、カーテンが設置されつつあり、さらに奥では2,3日前から調子の悪かった折り畳み椅子が解体されつつあり、その状況で放置状態で妻はいなくなっていた。

なんとも中途半端な状況で・・・と思ったが、台所に書き置きが・・・。

「脚立から落ちてしまったので、念のために病院にいってきます。17:30」

びっくりしてケータイに電話するも、妻のケータイが家の中で鳴った。きっと着の身着のままで飛び出して行ったんだろう。
こっちも連絡するすべが無くなり仕方なく、大丈夫だろうと自分を安心させるために「妊娠出産の気がかりQ&A」の該当ページを探す。

そんなことをしてたら妻は帰ってきた。

大丈夫だったらしい。
羊水に守られてるから出血とかなかったら大丈夫のよう。とりあえずほっと胸をなでおろす。
そして病院で、エコーで赤ちゃんの手と足がばたばた動いているのが見せてもらったようで不思議な気分になったという。大きさも2.6cmになった。月曜に診察に行ったときは2.1cmだったから、5日間で5mm大きくなったのか。

そんなわけで、この時期、今後脚立は厳禁である(まぁこれで自分から乗ることは無いと思うが)。

明日は久々の長男邸へ。こちらもこの時期、野球の話題は厳禁だろう。なぜならば長男はベイスターズファンだからである。(と、いいながら自分から自虐的に話し出すかもしれないが・・・)  

2008年05月31日

「旅の途中の日常」


これまで撮りためた写真で気に入ったものを1枚1枚、じっくり見てもらおうと写真ブログを開設しました。写真からの雰囲気を少しでも味わってもらえたら幸いです。

タイトルは「旅の途中の日常」です。

なお、ゆったりと忘れた頃に更新していきます。



  

2008年05月25日

オガターーー

    

「マリーンズの応援もすごいですが、カープの応援が一番です!」

篠田は洗礼を浴びたけど、今日は現時点で最高の試合でした。そしてオガタのこのヒーローインタビュー、痺れました。  

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2008年05月24日

激!


↓今年の鯉の模様はこちらに↓

鯉が優勝するまで続けるブログ
  

Posted by tana at 20:46Comments(4)TrackBack(0)2008年の鯉

2008年05月18日

今年初の焚火

京都但馬一人旅旅行記の途中ですが、去る土日、妻と長男(といってももちろん我々の子供ではない)と錦川へ2年ぶりの野営にいったのでそのときの写真をアップします


2年ぶりの錦川。テン場のトイレは壊れたままであった。
カヌーも積んでいったんだが、テントを組み立てた後、飲んだくれてしまい、その後カヌーを組み立てることは無くその姿を見せることは無く終わった。


「焼きそばが食べたい」という妻の注文に、長男が過去特注して作ってもらったという直径50cmの鉄板鍋を披露する。あの家には変なものならなんでもあることを改めて実感。


そして夜は焚火。
火は踊るように揺らめいていて、一瞬たりとも同じ姿を見せない。その写真を撮るのはやはり難しい。

火というものをじーっと見ていると気分が落ち着くというか、この一瞬たりとも同じ瞬間はありえない姿を見てると楽しい。
薪の位置を火ばしでちょっと変えるだけで勢いが変わる。風が吹けばまた火の勢いが強くなる。そして、薪が燃えた後、真っ赤な炭になるところも美しい。
真っ赤な炭は溶鉱炉の中のようにくすぶっている。
なんかあったらいつでも火がつくて燃え上がるぞ~という感じで。
瞑想などで、気持ちを無にするというものがあるが、火を見てるとそんなからっぽな気持ちになる。



対岸には錦川清流鉄道が1時間に1本くらいの割合で通る。装備撤収後、ちょっと乗って車窓から錦川を眺めてみようと思い、近くの駅に立ち寄る。が、次の列車がくるまで30分待たないといけないのと、昼間は2時間に1本のダイヤとなっておりどこかで降りて往復して帰ってくるまでに2時間以上かかるため、あっさりあきらめて広島に帰った。  
タグ :焚火

2008年05月09日

京都へ~2年ぶりの一人旅、京都但馬へvol.1~

2008年5月3日、この日から世間は4連休である。
ネコも杓子も旅に出る風薫る5月の連休であるが、私も例外ではなく京都へ向かった。

11時前に京都到着。腹減った、飯だ、駅の周りでなにか食べよう、なにかあるだろう。と思い改札を抜け・・・

なんだこの人の数は!!!

これは飯を食べるにもなにを食べるにも行列に並ばないとありつけそうにない。こんなところは早く抜けてバスに乗ろう、とバスターミナルへ行くも、どの方面のバスに乗ろうにも大行列が待っていた。まったく連休となったら日本人は・・・と思うもよく見ると外国人観光客も多い。そして日本人のような雰囲気でも口から発せられるのはハングル語だったりするから、浅はかな日本人の観光客がガイドブックに連れられこんなに集まってうっとおしい、・・・というのとも若干違うのだろう。

そんなにいうお前はどうなのか?浅はかな日本人観光客の一人ではないのか?という人もいるだろうが、私が京都に来たのは意味がある。
「立命館国際平和ミュージアム」に行ってみたかったのだ。
道中の人の多さに辟易しながらも、目的の博物館に着くと「さっきまであれだけいた人たちはいったいどこに行ったのだ??」というくらいそこは閑散としていたもんだから、前述の浅はかな日本人観光客と私とでは一味も二味も違うことが分かっていただけるだろう。

そういえばタイやネパールに行っても飛行機や空港までは日本人がいっぱいいるのに、いざ街歩きなどしてるとそこには全然日本人の姿がなく「あの時、空港であれだけいた日本人はどこにいるんだ」という気持ちによくなるのとよく似ている。

話を戻す。
なぜ、京都へ「立命館国際平和ミュージアム」に行ってみたい、と思ったのか。
それはもう6年も前になるのだが、我が有能なる側近のFに「一緒に映画でも行きませんか?」と誘われ横川シネマへ行ったことがあった。映画のタイトルは「軍隊を捨てた国」。コスタリカの国の話である。当時、前知識も無く見終わったので、ネットでいろいろ復習してたら、映画を製作した監督の会社のサイトの興味深いコラムに辿り着いた。
以下に勝手に引用する。

『・・・・平和博物館を建設中である。日本にも、平和博物館なるものがいくつかあるが、私から言わせればそのほとんどが「平和博物館」というカテゴリーにはいらない。もしかしたら、日本には平和博物館はひとつもないかもしれない。例えば京都の立命館大学は、「立命館平和ミュージアム」を作り、その評判は日本隋一だ。ところが、平和学の始祖にして権威であるヨハン・ガルトゥングは、それを知っていながら、こう言うのだ。「京都には立派な『反戦』博物館がありますね」と。そう、日本にあるのは全て、反戦博物館なのだ。平和博物館とは、まさに平和を生み出すためのものであり、戦争をしないためのものとは違うのである。無論、反戦は平和のうちに含まれる。だが、一部でしかありえない。ドニャ・カレンが現在建設中の平和博物館は、「平和とは何か」を考えるためのさまざまな工夫がしてある。・・・・』

「戦争の対義語が平和」というくらいの認識しかなかった当時、目から鱗が落ちるような感覚に陥った。
平和とは何だ?
よくわからないけど、とにかく行って見てみよう。そこがどんなものなのか。

・・・と思い苦節6年。アジアや沖縄ばかり行ってすっかり忘れていたこの場所に行ってみようと思い至ったのだ。  
タグ :京都

2008年05月09日

平和博物館~2年ぶりの一人旅、京都但馬vol.2~

立命館国際平和ミュージアム

ここは「かつて平和が損なわれた歴史」を見すえることを通じて「なぜ殺りくと破壊に狂奔したのかという、人類史的テーマを考える学習と思索と創造の場にしていきたい」という場。

私は「あの戦争での尊い犠牲があったからこそ今の平和な世の中がある」というような考えには違和感があるのだが、なぜあの戦争が起きたのかについてはやはり検証しておかなければならないと思う。

常設展は「十五年戦争の実体」「第二次世界大戦と戦争責任」「現代における戦争と平和」の3つのテーマがある。

以下に、見たこと、考えたこと、その場でメモしたこと、その夜考えたこと、家に帰り「長男戦争講座」のレジュメをみながら考えたことなど羅列しました。そのため、実際に展示されたものがどこまでだったのかわからなくなったが、気になった人は行ってみて欲しい。<JR京都駅より 市バス50番「立命館大学前」下車徒歩5分の場所にあります>

・戦争協力のための国債を発行し、町内会などで目標設定させ強制的に徴収させる。
・芝居などの文化自体も軍国主義的なものへ移行されていく。
・環境が変わっていく中で、一般人も進んで「協力」しながら戦時体制が構築されていくようになる。
・侵略先の植民地でも同じような環境としていく。
・そのような「おしつけ」に反対する抗日運動が起きる。今の中国の礎もここにあるのではないか。(ナチスに迫害されたユダヤ人がイスラエルを建国し周辺国とトラブルを起こすのと同様のこと?)
・60年前など家族で言えばおじいちゃんの代であり、傷は簡単に消えない。親から子へ伝えられることにより溝が深くなることも多い。

・軍隊自体も人権無視、精神主義のいじめ体質であった。(そうでない軍隊というのは考えにくい)
・その環境の下で、軍隊の外の住民、植民地への住民へそのはけ口として向けられる。
・沖縄戦での日本軍、日本兵の住民へのさまざまな行動、住民の証言からその体質が一端として垣間見える
・今の社会も、「軍隊」はないが、近い状況はありうる(ストレス、いじめ、競争、格差・・)
・ネットなどの仮想社会では顕著(より弱いものや攻撃しやすいものへのはけ口となっている)
・セカンドレイプ(例えば米兵に被害にあった少女に「ついていくほうが悪い」という考えがネット上で大半を占めるという風になる論調。その言葉を言える資格があるのは家族などのごく身近な人だけである)

・9.11はたしかに衝撃的であった。しかし私たちは9.11のようなことはすでに受けている。
・一人ひとりが、その家族がどういうビジョンを持って寿命まで生き抜くか。そのためにはどういう環境が必要か。何を残していくか。何をなくしていくか。
・人間として、最適な環境とは何か?

・このような施設があり続けることが大事。いいと思ったもの、残したいと思ったものは訪れることが大事。
・ここは大学立だが、公立の施設であれば「採算が合わなければ民営化か廃止だ」と言われかねない。もちろん、民間にできないようなビジョンを実現することが公の施設であるはずなのだが。

・他人の痛みを自分の痛みとして感受できる想像力を磨くことができるか?そして、その環境にあるか。
・人間としての感性を磨くことができるか?そして、その環境にあるか。


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